大変革期にある世界の特許制度
— イノベーション促進的な制度に向けたアカデミックな貢献 —
2008/10/30
本年9月、AIPPI(国際知的財産権協会)の第41回国際大会に参加しました。今回の会議はボストンを舞台に開催され、76カ国から2,000名以上の政策担当者、特許弁護士、弁理士、学者などが集まりました。
この大会で最も印象深かったのは、日米欧の3カ国の特許庁長官が並んでスピーチをした特別セッションです。その場で明らかになったことは、世界の特許制度がまさに大変革期にあり、変革に向けた国際協力が強く求められているということです。また、その変革に向けた時間的猶予は余りないということも共通認識となりました。EU特許庁のブリムロー長官(President, Alison J. Brimelow)が発した”It’s time to go”という言葉が今も耳を離れません。
このような会場の雰囲気が生まれた背景には、もちろん、アメリカ特許法の歴史的な大改正が議会で審議されているという事情があります。先発明主義を採るアメリカが、もし、多くの国と同じ先願主義に移行すれば、特許の世界に地核変動が起こります。国際的な制度のハーモナイゼーションや協力の余地も大きく広がるといってよいでしょう。しかし、大変革期にあるとの共通認識に達した理由としては、そのことだけでなく、世界各国が改革すべき、又は変化に対応すべき極めて重大な課題に直面しているという点が大きいと感じました。
今日、世界が共通して直面している重大課題は、幾つかあります。
第一は、特許の「質」の向上です。特許の「質」とは、先行技術や論文等のサーベイに基づく審査がどの程度きっちりと行なわれ、訴訟にも耐えられる、権利の安定した特許となっているか、ということを意味します。質の低い特許の存在は高額な訴訟の増加やパテントトロール(特許を買い集め、それを梃子に訴訟を起こして高額な和解金等を狙う集団、ファンドを組成して活動資金を集める手法が多い)の活動を刺激する要因ともなります。現在、こうしたことが企業を悩ませています。一方、質の向上とトレードオフの関係にあるのがスピード(審査期間)です。審査を精緻に行おうとすると、どうしても時間がかかります。ITのような変化の早い技術分野ではスピードも重要ですので、質の向上には、審査期間が余り長くならない範囲で、という限定が付くことになります。
第二は、イノベーションのオープン化(オープン・イノベーション)や特許の対象の変化(ビジネスモデル特許、バーチャルリアリティの世界の発見など)といったイノベーションの世界の構造変化への制度的な対応です。特に、ヘンリー・チェズブロウが提唱したオープン・イノベーションの進展は、特許の源となる発明の創出、権利の保有、移転に対し、広く構造的な影響を及ぼしています。国際共同開発のようなクロスボーダーのオープン化も目立ってきいています。オープン・イノベーションを先導したことで著名なIBMの上席副社長John Kerry氏は、 「オープン化の勢いは激しく、もやは、流れに抗うことはできない。それに合うように制度を改正しても、変化のスピードに追いつくのはなかなか難しい」と述べています。
第三は、特許の世界における韓国、中国、ブラジル、インドなどの国々の存在感の高まりです。近年、5大特許庁会合という国際会議が設けられていますが、これには、日米欧のほか、中国と韓国が参加しています。こうした国々の台頭により、まず、特許審査における先行技術や先行特許の調査の対象も広げざるをえません。その場合、中国語の論文等を如何に把握するかが大きな問題となってきます。また、産業界や学会から出てくる国際的な制度のハーモナイゼーションの要請もより地理的範囲の広いものとなります。
第四は、サイエンスリンケージの上昇です。サイエンスリンケージとは、特許となった技術がどの程度サイエンスに根ざしたものであるか、具体的には、特許による学術論文の引用頻度のことを言います。引用頻度が高くなると、この指標は大きくなります。特に、ライフサイエンス・医学や環境分野では、この上昇によって、学術論文と特許の垣根が低くなり、双方を俯瞰的に見渡す必要性が高まってきています。
今回の会議では、こうした構造変化や難題に直面しつつも、EU特許庁と米国特許商標庁は、それらに対応するために必要な人的余裕も精神的余裕も持ち合わせていない、という印象を受けました。両特許庁の長官の講演では、足下の問題、すなわち、特許申請や滞留(Backlog)の増加に如何に対応するか、 という点に多くの時間が割かれていました。実際、世界の特許出願は急増しており、1995-2005年の10年間で約60万件増加しています。また、2005年の特許出願166万件のうち約4割が国際的な(非居住者による)出願となっており、国際化への対応も迫られています。特に、米国特許商標庁(John W. Dudas長官)は、米国における特許の質がEUや日本に比べ劣るという問題や審査官の離職の多さという問題を指摘されており、それらへの対応が急務という状況にあります。
その中で、「イノベーションを促進する特許制度に向けて」というタイトルで講演した日本の特許庁(鈴木隆史長官)には、期待が集まりました。日本が提案した、「特許制度とイノベーションに関する学術的研究の強化」、「国際的な特許審査ハイウエイの拡大」、「特許申請された案件のサーチ結果の交換(国際共同利用)」、「中国語などの自動翻訳システムの開発」、「学術論文と特許を俯瞰的、シームレスに検索出来るシステムの開発」等に対しては、ぜひ、日本のリード(と負担!)で進めて欲しいというのが、この場の共通した意見でした。
「世界特許庁」の創設は、夢のまた夢かもしれませんが、バイ(2カ国の間)で出来ている特許審査ハイウエイのネットワーク化(多国間化)やサーチ結果の共同利用、システム・分類・出願様式の共通化が進めば、基盤部分でのハーモナイゼーションが相当進むことになります。個々の特許庁のリソースに限りがある状況下でも、国際協力によってワークシェアリングを行えば、スピードを確保した上での特許の質の確保など、先の課題群にある程度、対応することが可能となります。ある意味、「仮想的な世界特許庁」に向けての前進と言えるのではないでしょうか。
日本の特許庁の提案のうち、「学術論文と特許をシームレスに検索出来るサーチ・システムの開発」に代表されるイノベーション・インフラ構築については、既にこの7月、「特許庁と東京大学が協力して共同検討会を設置する」とした合意がなされており、既に活動も開始しています。東京大学は、先端科学技術研究者を多く有することから、システムを有効なものとするため、ユーザーサイドの視点からの知的貢献を期待されています。また、システム開発に当たって自然言語解析など情報工学に関する学術的知見も活用可能かと思われます。
特許制度をイノベーション促進的な制度とするための学術研究についても、東京大学は、国際的な知的貢献が可能だと考えます。主要な論文誌等(英語、1970年−直近まで)が収録されているISI社のweb of Scienceデータベースを使って、Patentに関する先行研究を検索してみると、“Patent”をタイトル、要旨、キーワードに含む論文等として34,784件ヒットします。ただ、Patentを別の意味に用いている論文も多く(特に医学系の論文で先天的な、固有の、の意味で多様されています)、Patent & Innovation等(Innovation等には、その類義語-Innovate, R&D-などを含む)として対象を絞り込んで再度、検索をしてみると、1,264件に過ぎません。社会科学系の論文誌に掲載されたものとして抽出しても8,717件です。さらに、これには、権利の保護の強弱、特許の出願・維持コストとイノベーションの関係など、特許制度そのものを議論した論文だけでなく、特許を指標として使って、企業のイノベーション活動、提携やグルーバル化などの企業のマネイジメント、技術のスピルオーバー等について議論したものも多く含んでの数字です。同じweb of Scienceのデータベースを用いてイノベーション研究を検索した場合に42,444件も該当することと比較すると、この分野の学術研究はまだまだ不十分と言わざるをえないのではないでしょうか。今回、AIPPI参加の後、各国特許庁や米国主要企業に個別にインタビューをしてみると、そのような認識で違和感がないことがわかりました。また、多くの国の特許庁において、大学と連携しながら学術研究を充実させようとされていることがわりました。
先に挙げたような諸課題を考えると、具体的な研究テーマとしては、①特許の出願・維持費用、審査のスピード、保護する権利の範囲など基本的特許制度とイノベーション活動に関する計量的な研究、②特許の質及びそれを担保する制度や実施体制と企業や大学のイノベーション活動の関係についての実証研究、③国際共同研究や産学連携のような複雑なケースに関する突っ込んだスタディ、④イノベーションのオープン化やバーチャルリアリティなど経済社会の変化と特許制度の関連についての研究などがあると考えられます。また、環境変化のなかで、我々大学自身の特許出願や管理のあり方についても検討してみる必要があると思われます。
研究テーマからみて、特許とイノベーションに関する研究には、従来の学問分野にとらわれず、経済、経営、法律、工学など横断的なグループを組成する必要があると考えます。また、内容濃く、かつ、スピーディに進めるためには、研究能力の高い海外の大学との国際協力が必要となってくるでしょう。
世界の経済社会に大きく貢献するような目標と、先のような研究の進め方は、政策ビジョン研究センターの設立理念と合致しており、今後、研究グループの立ち上げや国際連携に向けて努力していきたいと考えています。