新しい安全保障の課題

東京大学大学院法学政治学研究科教授
藤原帰一

2008/12/09

安全保障の研究と言うと、どんなイメージがあるだろうか。北朝鮮、国防、日米関係、憲法改正を思い浮かべる人がいるだろう。読売新聞や産経新聞の担当分野と言う印象もあるかもしれない。中国の脅威をもっと認識せよなんて議論にも結びつくだろう。

では平和の研究と言えば、どんなイメージになるだろう。平和憲法、国連、地雷禁止、ソフトパワーなんて言葉が並ぶかもしれない。新聞で言えば朝日か毎日、なぜか環境保護や捕鯨禁止や平和構築と仲良しになる。勿論イラク戦争には、反対。

別に日本に限ったことではない。安全保障論と平和研究は同じ対象に対する異なったアプローチ、更に言えばアプローチの違いと言うよりは価値観や好みを当てはめる違いに過ぎなかった。立場は違っていても実は議論の建て方、議論の内容には大して違いがない。

このような安全保障論の安定、あるいは膠着を生み出したのは半世紀に渡って国際政治を支配した冷戦構造だった。アメリカとソ連がお互いに不寛容に向かい合い、しかもその相互抑止によって国際関係の安定が支えられる。この基本的な構造が半世紀にわたって続いた為に安全保障の議論も安定し、中身が変わらない状態を長らく続けてきたのである。しかし現在の安全保障の課題は、この頃とは極めて違ったものだ。安全保障の議論に関する転換をここで考える必要が生まれる。

第一に、誰が敵なのか。従来の国際政治では敵に値するものはあくまで軍事大国であった。第二次世界大戦におけるナチス・ドイツや日本、あるいは冷戦におけるソ連が巨大な軍事力を要していたことには疑いがない。しかし、現在の国際政治では軍事力の規模がはるかに小さいにも関わらず、大規模な攻撃を行うことのできる主体が、現実に存在する。同時多発テロ事件におけるアルカイーダを例にとれば、国家でさえない私的な団体であり、しかも高度な武器を持っているわけでもない。核兵器どころか戦略爆撃機も持っているわけではない私的な団体が大規模な破壊を行うことに成功したのである。このように、軍事大国が対象だと前提は、現在の安全保障の研究では妥当しないと言うべきであろう。

第二に、どのような手段で対抗すべきか。伝統的な安全保障においては軍事的に攻撃をする意思を明示する事によって相手の行動を押さえ込む、抑止と言う戦略が一般的にとられてきた。しかし例えばテロリストに対して、攻撃を事前に予告したところで自爆テロを阻むことは出来ない。大規模な攻撃によって事前に脅しをする抑止戦略が、このようなテロリストに対しては妥当しないのである。

最後に、何が国際紛争なのかと言う事がここで問題になる。アルカイーダとの関係を国家と国家の緊張関係などとして考える事は出来ない。何よりも相手が私的な団体だからであり、国際関係の観念から捉えることができないからだ。仮にテロ団体を支援する政府が存在するとしても、そのテロ団体との関係を国際紛争という枠の中で捉えることに、意味はない。

こうして誰が敵なのか、どの手段で対抗するのか、何が国際紛争にあたるのか、これら三つの点について伝統的な安全保障の概念が大きく組み替えられてしまった。
ここから生まれてくるのは二つの態度である。

第一に安全保障の必要を過大に考えて、どのような主体も潜在的には脅威であると考える方法だ。テロリストに走りがちな反政府活動は世界に多いために、それら安全保障に対する大きな挑戦であると考える時に安全保障の領域は極端に広がる事になる。これに食の安全などを加えてみれば市民生活の安全を脅かす存在は、極めて数が増える事になってしまう。このような状況をコペンハーゲン大学のオレ・ウィーバーは、安全保障化(securitization)と言う言葉で捕らえている。安全保障の対象が拡大することは、安全保障と言う政策領域が市民生活全体を覆いつくしてしまうと言う結果を招くのである。

第二の態度が失望と無力感だ。敵の規模が大きくなればなるほど、それに対抗する手段には合理性が乏しいという逆説が生まれる。そのために、安全保障化が進めば進むほど、何をやっても効果がないのだと言った無力感が広がってしまう。

ここに新しい安全保障を議論する意味がある。すなわち安全保障の主体も領域も拡大している現状の上にたって、どのような実効的な手段を取ることができるのかを考えること、これが新しい安全保障の研究の大きな課題である。政策ビジョン研究センターの安全保障プロジェクトでは、いま、まさにこの課題について検討を始めている。