教育による安全保障
2008/12/16
国の安全保障といえば、通常、軍事力のあり方が話題となる。新兵器を導入すべきか否か、また他国との軍事同盟をどうするか、集団的安全保障の是非が論じられるところである。国際社会での安全が最終的には実力で担保されている以上、軍事力が安全保障論議の中心であることは間違いない。
しかし、グローバル化の時代にあって、安全保障は他国からの侵略に対応することだけではなく、食糧やエネルギーの確保の問題にも及んでいる。さらに、近年では、アメリカの軍事的圧倒的優位体制の下で、不満をもつ勢力は、ミサイルや核兵器もさることながら、テロという方法で対抗しはじめた。一般国民と見分けがつかない群衆の中にいるテロリストが、突然爆弾や銃撃によって多数の市民を殺傷する。このテロに対しては、ミサイルや戦闘機といった最新兵器は役に立たない。かといってテロを未然に防ぐために、多数の国民をテロリストとして疑うことは、国民の間に恐怖心を植え付け、社会不安を醸成する。そして、それは本来守るべき国民の安全・安心感を損なうことになりかねない。
このように、安全保障の対象もそのあり方も多様化し、従来の方法が有効性を失いつつある現代において、国の安全と国際社会の平和をどのように維持するか、またテロリストに対して、どのように対処すべきかを考える際には、新たな思考のフレームワークが必要となるだろう。
グローバル化が進展し、世界の情報が容易に手に入るようになった現代社会では、小さなきっかけから国民同士が感情的に対立し、それが軍事対決には至らないまでも、国家間の緊張を招くことがしばしばある。それが悪化しないように、またそうした状態を作り出さないようにするためには、国民と国民とが、とりわけそれぞれの国の政治的リーダー同士が日常的な信頼関係を築いておくことが大切である。政治的リーダー同士が相互に相手をよく知り、相手の性格や考え方を理解していれば、仮に緊張関係に陥っても、相手の心情を推察し、妥協点や融和策を見いだすことが、そうでない場合よりはるかに容易であろう。
それでは、そうしたリーダー間の信頼関係を築くにはどうすればよいか。利害や立場を超えた友情や人間関係が形成されるのは、多くの場合、若い時、特に学生時代である。同じ学校で学び、同じ宿舎で過ごした学生時代に培われた同窓の絆は、歳をとり、それぞれが社会で一定の地位についた後も長く続く。そのネットワークは、相互の信頼を基に成り立っている社会人としての活動に大きく貢献する。まして、それが国境を越えたネットワークであり、そのネットワークに相手国の高官がいる場合、国家間の相互理解と話し合いが円滑に進む可能性は高い。
現在、我が国では世界の多くの国から多数の留学生を受け入れている。しかし、まだこうした観点から、留学生を受け入れ、そのための教育、すなわち国籍の如何を問わず将来の国際舞台で活躍しうる人材を育成するための教育プログラムが実施されているかというと、そうとはいい難い。
将来、日本で学び、自国の政財官界で責任ある地位に昇る人物が多数出てきたとき、国際交渉は、共通の経験に基づき、共通の言語で行うことが可能になる。その数が、仮にアジアの多くの国の大臣や政府高官等のエリートの数パーセントであったとしても、彼らが、わが国とそれらの国との良好な関係の形成と維持に貢献することは間違いない。それが国際的な緊張の緩和と紛争の回避、国際問題の解決に資するとすれば、そうした人材育成への国としての投資は、安上がりで確実な、そして長期に及ぶ安全保障政策といえよう。
こうした教育を通した安全保障政策は、既に欧米の先進諸国では行われている。わが国でも、国際貢献という名目で留学生の受入拡大が叫ばれており、それ自体は結構なことだが、わが国の場合、受入れる学生の量のみが重視され、教育の質が重視されているとは言い難い。今、世界の大学は、優秀な人材を獲得するために、激しい競争を行っている。各国の主要な大学や大学院は、豊富な奨学金、優秀な教授陣、そして英語による授業等、国際社会でリーダーとなりうる人材の育成をめざして、多くの国から優秀な学生を集めるためにさまざまな工夫を凝らし、努力をしている。
わが国の大学が海外から優秀な人材を集めるには、既に遅すぎる感がないではないが、今からでも優秀な留学生を積極的に受け入れるとともに、同様にわが国の学生を派遣するためのプログラムを実施すべきであろう。それは、単に国際貢献や教育政策の観点からではなく、国の安全保障、それも狭い意味での安全保障ではなく、国際社会でこれから日本が重要な地位を占め政界平和に貢献するための政策の一環として位置づけられる、世界のエリートが日本で学びたがり、日本で学んだことを誇りと思えるような、恵まれた学習環境を提供するプログラムにしてほしい。軍備による安全保障の重要性を否定するつもりはないが、安全保障政策を考えるときには、従来の思考の枠を超えた発想をすることが必要であろう。