上りより下り、高齢者のエスカレータ

政策ビジョン研究センター准教授
中島 勧

09/02/03

階段の上りと下りはどちらが大変か?という問いに対して、健常者は「疲れるから」という理由で「上り」と回答することでしょう。地下鉄や私鉄、JRなどの鉄道駅の多くでエスカレーターが上りと下りのどちらが多いかと考えてみれば、上りが多いことは明らかですし、おおむねそのような理由で上りエスカレーターが多いと考えれば納得がいきます。通勤時間帯の地下鉄の駅で、エスカレーターに整然と並んだ人の群れが順次上層階へ運ばれていく様子は、ベルトコンベアで運ばれる工業製品のようであり、電車を降りた人が一斉に階段に殺到するのを防ぎ、電車に乗るために駅へ降りてくる人と流れを分けるために設置されているようにも感じます。本稿では、駅に設置されたエスカレーターの設置目的についてよく考えてみることにします。

駅へのエスカレーター設置は、多くの場合バリアフリー活動の一つである段差解消に該当します。確かにバリアフリーという言葉を辞書(大辞泉)で調べると、「障害者や高齢者の生活に不便な障害を取り除こうという考え方。道や床の段差をなくしたり、階段のかわりにゆるやかな坂道を作ったり、電卓や電話のボタンなどに触ればわかる印をつけたりするのがその例」とされており、その中でも段差解消は特に重要な課題であることがわかります。平成18年12月に施行された「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(通称バリアフリー新法)」に基づき、同月に国土交通省から発表された「移動等円滑化のために必要な旅客施設又は車両等の構造及び設備に関する基準を定める省令」では、エスカレーターの設置基準として「上り専用のものと下り専用のものをそれぞれ設置すること」と規定しています。これに基づいて平成19年7月に発表された「公共交通機関の旅客施設に関する移動等円滑化整備ガイドライン」では、エスカレーターの方向として「上り専用と下り専用をそれぞれ設けることが望ましい」とされており、上りだけでも作っておけばガイドラインの規定を何とか満たせることになります。

それではバリアフリーの対象である障害者や高齢者にとって、階段の上りと下りのどちらが移動の障害になっているのでしょうか。わかりやすい例を挙げてみます。健常者が階段を上っている時に足を踏み外すと、すねを階段の角」にぶつけて痛くなるか、前の段についた手が汚れる場合が多いでしょう。しかし階段を下っている時に足を踏み外したらどうなるでしょうか。通常は階段を滑り落ちたり、転落して大けがをしたりする危険性があります。たとえば視力が落ちて前が見えにくい人や、お腹の大きな妊産婦、ベビーカーを押しているお母さんにとって、上りと下りのどちらで段差が見えにくいでしょうか。上りの場合は、仮に見えなくても足や荷物、ベビーカーなどが段差に当たって気付きますが、下りでは踏み外すか落ちるまで気づかない可能性が高くなります。健常者でも、重い荷物を持っていたり、急いで電車に乗ろうと階段を駆け降りたりした時に、階段から落ちて怪我をしそうになった経験は、多くの人が持っているのではないでしょうか。

実際に、高齢者の多くがかかる「変形性膝関節症」という疾患では、上り階段は何とか上れるが、下りは痛みが強くてどうしても下りられないという症状が出ることが多いことが、整形外科領域では常識とされています。また年をとってバランス機能や視力が低下した場合にも、下りの階段に恐怖感を感じることは容易に想像がつきます。そのような疾患にかかると、駅の階段を上ることはできても、下ることが困難になる場合が多くなり、上りのエスカレーターしか設置されてない駅は利用しにくくなるのです。バリアフリーの進んだ駅では、下りのエスカレーターがない代わりに、エレベーターが設置されていることもあります。しかしエレベーターが設置されている場所は、改札口から遠かったり見えにくかったりするために、あまり有効に利用されていないことが多いように感じます。仮に最寄りの駅に下りエスカレーターや使いやすいエレベーターが設置されている場合でも、目的地の駅に設置されているかどうかわからない場合には、鉄道の利用に二の足を踏む場合が多くなってしまいます。たとえば階段を上れるが下りられない高齢者が、どうしても下り階段を下りなければならない時にはどうするかと言えば、手すりにつかまって後ろ向きに階段を降りることになります。私は、都心の駅で、後ろを振り返りながら恐々と階段を降りる高齢者の姿を見ると、これが本当にバリアフリーの進んだ社会なのかと嘆かわしく感じてしまいます。

すでに我が国は世界ではじめて65歳以上人口が総人口の21%を超える「超高齢社会」に突入しており、バリアフリー政策は喫緊の課題であることは明らかです。バリアフリーを目的として設置された施設・設備は、利用対象者が高齢者や障害者であることから、設置の効用を検証することは困難なことも確かです。しかしエスカレーターは下りの方がバリアフリーには役立つということは、上記のように明らかなのです。

「うちの駅には上りエスカレーターを設置してバリアフリーの予算が無くなったし、もうエレベーターを作る場所もない」とお嘆きの駅長さんは、試しに上りエスカレーターを逆回転させて下りにしてみてはいかがでしょうか。初めのうちは、上りだと思って出口から入ろうとし、降りてきた人にぶつかる人も増えるでしょう。でも本当に困っている人のためにはなるはずです。その時には、視覚障害者にもよく見えるよう、方向を示すサインも忘れないようにしてくださいね。