中国経済と『道徳感情論』

政策ビジョン研究センター客員研究員
田中 修

09/06/04

中国の温家宝総理は、ダボス会議に出席した後英国を訪問し、「フィナンシャル・タイムズ」の単独インタビュー(2月1日)に応じた。その際、次のように述べている。

「我々が確立しなければならない社会は、公平正義の社会であり、各人が自由・平等の条件下で全面的な発展を得る社会である。これが、私がアダム・スミスの『道徳情操論』(※注1) を愛読するゆえんである。アダム・スミスは1776年に『国富論』を出版したが、彼は『道徳情操論』も執筆している。『道徳情操論』には、非常に精彩ある論述がある。彼は、『もし社会の経済発展の成果が大衆の手に真正に分け与えられないならば、道義上において人心を得ることができず、リスクを伴う。それは必然的に社会の安定の脅威となるからである』と語った。私はずっと、公平正義が我々の社会主義制度の第一に重要な価値と考えてきた。

『道徳情操論』は、長らく人の注意を引かなかった。私は、この本の意義は『国富論』に匹敵すると思う。アダム・スミスは、『国富論』と『道徳情操論』において、2度「見えざる手」に言及している。
1つの「見えざる手」は市場であり、もう1つは道徳である。」

また、ケンブリッジ大学での講演(2月2日)においても、温家宝総理は学生に『道徳感情論』の重要性を説いている。だが、これだけであれば英国民に対する彼のリップサービスと言えなくもない。しかし、帰国後行われたネットによる国民対話(2月28日)においても、彼は更に次のように述べている。

「私は最近、アダム・スミスの『道徳情操論』を愛読している。スミスは、2つの見えざる手を述べており、1つは市場、1つは道徳である。もし富を少数の人々が独占し、多数の人々が貧困状態にあるならば、それは不公平であり、このような社会の不安定化は必然である。このため、我々は貧富格差の問題の解決を非常に重視している。」

ここからすると、彼が『道徳感情論』を重視しているのは、本当なのであろう。資本主義の母国英国の国民が社会主義を標榜する中国の指導者から『道徳感情論』を教えられるのは皮肉というしかない。

アダム・スミスは『道徳感情論』において、「財産への道」と「徳への道」を説いた。人は便利さや快適さだけでなく、他人からの称賛を得るために、富や高い地位を求め、貧困や低い地位を避けようとする。しかし、スミスの考える幸福とは、「健康で、負債がなく、心にやましいところがない」状態で生活できることであった。それ以下の富の水準であれば、人は世間から無視され、軽蔑されていると感じ、自尊心が傷つく。しかし、それ以上の富を得ても却って心の平静は乱れ、幸福は増進しないと彼は考えたのである。

「賢人」は、最低水準の富さえあれば、それ以上の富は自分の幸福に何の影響ももたらさないと予想する。逆に「弱い人」は、最低水準の富を得た後も、富の増加は幸福を増大させると考える。「財産への道」は「弱い人」が選ぶ道であり、「徳への道」は「賢人」が選ぶ道である。普通の人間には「弱い人」と「賢人」の両面があり、人は2つの道を同時に進むが、「人類のうちの大半は、富と地位の感嘆者であり崇拝者」であるため、「徳への道」の重要性を認めつつも「財産への道」を進むことを優先させる。

しかし、「財産への道」を優先させるとしても、そのプロセスで同時に徳と英知を身につけていくのであれば、2つの道は一致する。富と名誉と出世を得るには他者との競争が必然的となるが、これが「徳への道」につながるフェア・プレィの精神によって行われるのであれば、社会の秩序は維持され、社会は「見えざる手」に導かれて繁栄する。スミスは正義感によって制御された野心、および、そのもとで行われる競争だけが社会の秩序と繁栄をもたらすと考えたのである 。(※注2)

そもそも市場経済は、市場参加者がルールを守らなければ効率的に機能しない。ルールが守られない市場は、弱肉強食のサバンナ状態になってしまうからである。アダム・スミスの言うとおり、市場に参加する人間は、他者に対する同感、正義感及びフェア・プレィの精神が必要なのである。

しかし、ルールを守らない方が守るより短期的に大きな利益を得ることができる場合、あるいは相手を騙す方が契約を誠実に履行するより短期的に大きな利益を得ることができる場合に、市場参加者をルール遵守に導くことは決して容易ではない。市場のルールが参加者に進んで守られるためには、何らかの倫理的動機づけが必要であり、この欠如が中国で現在「公民道徳の建設問題」として共産党指導部を悩ませている。いわば中国では人々が「財産への道」のみを目指し、「徳への道」が忘れ去られているのである。それだけでなく、中国の経済発展の結果として富豪が増えている一方、未だに最低水準の富を得ていない国民は多い。温家宝総理の一連の発言は、市場経済移行国の苦悩の顕れともいえよう。

そして、最大の資本主義国家であるアメリカも、投資銀行・自動車産業を中心に経営者が無限の富と地位を追い求め、徳への道を歩む「賢人」が不在となってしまったことが、今回の大破綻の根本原因ではあるまいか。


■注1:中国ではこのように訳されている。日本でも1948年の米林富男訳は『道徳情操論』とされていた。
■注2:このアダム・スミス解釈は、堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書2008年)を参考にしている。