医療イノベーションのフロントランナーに聞く②
2012/11/29
山野 「医療イノベーションのフロントランナーに聞く」第2回は、政策ビジョン研究センターの初代センター長で、現在は名誉教授の森田朗(もりた・あきら)先生にお話を伺います。森田先生は厚生労働省中央社会保険医療協議会会長も務めておられます。
政策ビジョン研究センターは、設立当初からさまざまな医療関係の研究に力を入れてきました。それはなぜですか。
高齢化が深刻になるのは都市部
森田 政策ビジョン研究センターを設立した目的は二つあります。ひとつは専門分野の研究に横串を刺すような形で研究をする、あるいは研究を統合していくこと。もうひとつは、それを社会に対して発信していくことです。 どういうテーマを選ぶかということで考えたのは、今まさに国家戦略にもなりましたが、グリーンイノベーション、ライフイノベーションに関わることです。とくに後者では高齢化が大きな社会的課題となっているので、高齢社会における医療政策をどうするかということに焦点を当てたわけです。
日本の高齢化というのは世界の最先端を行くものです。「課題先進国」と言ったのは小宮山前総長ですが、そうした中でこの課題に総合的に取り組んでいって解決していく、その解決策の1つのモデルを作る。これは、これから高齢化が進む諸国にとっても、非常に有益な知見になります。これはビジネスであるし、ビジネスチャンスになり得る。それを作っていくことがまさにイノベーションではないかと考えたわけです。
日本の高齢化はこれからどのように進むのだろうか。数字を見ていると出てくるのは、これから高齢化が進んで深刻な問題になるのは首都圏を中心とする都市部であるということです。都市部の高齢化というのは、団塊の世代が高齢世代に入るので数がとても多いし、スピードが速い。さらに、多くの人が、伝統的なコミュニティではなくて、集合住宅、アパートで暮らしている。そして核家族である。
この前提で医療の問題を考えると、病院が多い都市部でも想定されるニーズに比べると供給量が足りません。だから在宅とか、いろいろな形での医療の形態を考えていかなければなりません。在宅医療は、病院と違っていろいろな専門職の方が時々訪問する形でケアをするということですから、どうやって調整し統合するかが問題になります。
あるいは、話題のiPS細胞など、新しい医療技術や薬がどんどん誕生しています。今までは治らなかった病気が治るようになり、あるいは苦痛を軽減することが可能になるわけですから、それをどんどん発展させていきましょうということです。日本の場合には、創薬といいましょうか、技術開発が、いろいろな制度的な問題もあってうまくいかないとも言われていて、そういう課題の解決についても取り組んでいきます。
さらに高齢者が在宅の場合、振り込め詐欺などが問題になっていますけれども、そういう人たちの医療や介護だけではなく生活面もケアをしていかないと大変です。とくにお金の管理ですね。市民後見研究実証プロジェクトはそれに取り組んでいる研究です。これらは全部一体として、高齢社会をどのように支えていくかということに結びついていると思います。
さらに大きな問題があります。医療サービスはどんどん発達していきますしニーズは増えていきますから、財政もそれに対応していかなければなりません。今は、医療保険制度や介護保険制度から支払われているのですが、保険財政が非常に厳しくなっています。私自身、中医協の会長をやっていますけれども、どういう形で、増加するニーズ、発展する技術を取り入れながら、限られた医療財源の下で十分な医療サービスを提供していくか、これは非常に難しい問題です。本当にこれは保険で支払うべき治療なのか、薬なのか、ということについて評価をする仕組みも考えていかなければならない。海外では議論がかなり進んでいますが、日本ではようやく始まったところです。
医療ITでビッグデータを処理
山野 森田先生は2010年にAPECで行われたプレゼンテーションで、「医療ITを駆使して医療提供体制をより効果的なものにしていくことが今後の課題であり、高齢化社会を迎えているわが国はもちろん、これから高齢化を迎える諸外国についても極めて重要である」と報告されましたね。
森田 ITの技術が非常に進歩して、いろいろなところで実用が可能になってきました。すでにオフィスや企業内ではずいぶん活用されています。今では国全体がIT技術を使って政策を実施するとか、国が詳細にモニターし、きめ細かくニーズに対応していくことも技術的に可能になっています。世界のいくつかの国では、どんどん取り入れようとしています。
日本にもそういう技術はあるのですけれども、制度面の制約であるとか、財政負担もあり、世界の先端をいく国から2周遅れぐらいの状態であると思っています。これらの国を急いで追いかけ追いつくことが、医療はもちろん、国民の生活の質を高めることになると思います。
医療は非常に複雑な仕事で、今までは個々の患者さんの治療をどうやって進めていくか、どういう形で患者のQOLを改善していくかが関心の中心であったわけです。非常に優秀な先生方の経験を積み重ね、その知識を共有して医学を進歩させてきたわけですが、患者さんは非常に大勢いるし、たくさんの健康な人もいます。
そういう人たちの中で、とくに遺伝子、環境等の要因と病気との関係がもっと分かってくれば知識の集積はよりいっそう進むわけですどういう形で病気が起こってくるのか、感染症などの場合どういう形で感染が広がっていくのか、ITを使って全体として大量の事例を観察すれば、短時間のうちに把握することが可能になります。現在では、そういう大量なデータについて数値処理をして、そこから情報を得るということが可能になってきたのです。ネットワークを活用する形で、疫学的な情報と、個々の患者さんの治療というものをリンクさせていく。それによって、より質の高い医療が実現できるし、効率的にできるようになる。そういう時代が来たということです。
さらに医療経済や医療財政、医療保険の観点からもメリットがあります。ある薬がどのくらい有効なのかとか、どういう治療をすれば効果があるのか、そういう情報を早く正確に得ることができる。今までは経験的な知識に基づいてやっていたことに対して、きちんとしたデータの根拠に基づいて決定を行うことができるようになることだと思います。
山野 先ほど、世界の動向から日本は2周遅れというお話がありました。森田先生は世界各国の最先端事例にも国内事情にも精通しておられると思いますが、なぜ日本がそのように遅れてしまったのでしょうか。
森田 技術そのものは相当進んでいると思いますし、最先端の研究もあります。しかし、日本の場合、個人情報について国民の側に非常にセンシティブなところがあるから、セキュリティーが確保できないかぎり、なかなかネットワークにつなげない。たとえばマイナンバーといわれる番号制度の導入を受け容れてもらえないということがあるのです。それを受け容れてもらうための決断も政治的にもなかなかできなかったと思います。
またどういうメリットがあるのかということが、なかなか国民に理解してもらえない。日本の場合、行政の質は世界的にもかなり高いので、多少手間がかかって紙で書類を出しても多くの国民はあまり不満を感じなかったと思います。ところが、外国ではそこにコストも手間もかかるのでIT化をしたら利用者つまり国民にとって便利だという話になる。ただ日本でも、ITを入れて番号制度によって管理した場合には、役所でやる手続きに関しては、役所のコストはもちろん、住民、国民が負担するコストも相当軽減されると思います。
これから増えていく単身あるいは夫婦の高齢者に対してきちんとした社会福祉のサービス、ケアをしていくためには、その人たちがどういう状態に置かれているかを、行政なり社会がきちんと把握しておかなければならない。それできめ細かいサービスが初めてできるわけです。それを人的作業でやるのはとうてい不可能です。だから、先進国ではITがどんどん導入されています。在宅高齢者の情報をタブレット端末で共有して、医者、看護師がその状態を離れた所からでも把握できるようにする。そして、必要なときに必要なケアをすぐできる、ぜひそういうことになってほしいと思います。私もだんだん高齢者に近づいていますので(笑)。
山野 行政にしても医療にしてもある程度能力が高いと、実際には大変でも今までやってきた態勢で対応できてしまう、それによってイノベーションが起こりにくいというようなことがあるということですね。これからはこれまでの能力では必ずしも処理しきれない時代が来るということでしょうか。
森田 かつて右肩上がりに高度成長が続き、そのあと、高度成長の貯金を使いながら20年ぐらい何とかしのいできた。でも今では高齢化が急速に進んでいて財政が厳しい。とくに財政を苦しくしている要因は、21世紀に入ってからは、何といっても高齢化による社会保障費の負担が増えてきたことです。
ヨーロッパでも同じような状況がありますが、じわじわとそういう状況になってきたところがあって、負担とサービスのバランスが比較的取れているように思います。たとえば福祉先進国の北欧では消費税率が25パーセントです。
日本の場合には、高齢化が急速に進んできたといっても、過去の成功神話がかなり強く生き残っている。そこは大きく認識を変えなければいけない。ちょっと痛い目に遭わないと認識は変わらないというのはあまりいいことではないので、そのために、科学、学問も含めて歴史を学んで、そこから大きな意識転換を図ることが必要です。その最も重要なポイントは、やはり政治的リーダーシップだと思います。
政策決定の必要条件を科学的に絞り込む
山野 先生は文部科学省の科学技術イノベーション政策における「政策のための科学」プログラムにも関わっておられますが、医療分野とはどういう関係があるのでしょうか。
森田 このプログラムは、日本でかつてのようなイノベーションが起こりにくくなってきた。大学の研究室では基礎的な研究が進んでいて、そこで開発される技術や知見は相当レベルが高いけれども、いわゆるイノベーションを実用化する前の「死の谷」といわれるところを越えられない。そこを克服するような制度を作る、あるいは研究を進めないと、日本の将来の成長が危うくなるのではないか。それでは、どうすれば「死の谷」を越えることができるのか。そのためのプロセスそのものも射程に入れて研究をしようという意識が生まれてきた。
これは、別にイノベーションだけの問題ではありません。他の分野の研究や政策でも同じです。たとえば政策は、役所も含めて、政治的な文脈の中で、過去の蓄積と経験と勘に基づいて作ってきた。それが多くの場合、失敗したり、効果を生んでいない。お金に余裕があればいいのですが、これだけ財政状況が厳しくなると、投資はうまくいくものに集中しなければいけない。そのためには、政策を作るときにデータなどを客観的に分析して、できるだけいいプロポーザルというものを作ろうという考えが強くなってきた。
本当にそのように科学的に政策が作れるならば、国会も政治もいらないのではないか、という気がしますけれども(笑)、そこまでいくのは現実には難しいでしょう。
だから、ある前提条件の中で今できることは何かというと、成功する政策ないしイノベーションの必要条件は何かを明らかにして、必要条件を満たさないプロポーザルというものは外してしまうということです。それだけでも現状よりかなりよくなるのではないかと思います。どのように必要条件を絞り込むか、さらに、ある程度絞り込まれて政策のプロポーザルが出された場合に、きちんと社会的な認識を得て、社会的な合意形成もしなければならない。そのために、どういう手続きに従ってどのように議論を進めていくかもきちんと研究しようということです。
医療の分野でも、国全体としての医療政策をもう少し科学的に検証して、きちんとイノベーションを進め、政策をより良くするにはどうしたらいいか、これが大きな課題です。
一例を挙げますと、創薬です。日本には新薬のベースとなるような研究はいろいろあるけれども、それがなかなか製品化されて市場に出て、みんなが恩恵を受けられるようにならない。
その背景には、薬事承認の制度とか、治験の手続きの問題とか、また医療費、薬剤や医療材料の価格をいくらにするか、などの問題があって、素材としての研究成果があっても、日本で開発するというインセンティブが企業に生まれにくい。それがどうやったら生まれるか。もちろん、海外にもマーケットがあり、広く展開することになるので、海外も含めての薬の開発、商品化、そうしたことを制度的にうまくやっていく、そのためにデータが重要になる……つまり先ほどのITの話になるわけです。
山野 医療イノベーションの推進についての課題をどのようにお考えですか。
森田 山中伸也先生がiPS細胞でノーベル賞を受賞され、今は非常に期待が大きいと思います。これまで治らなかった病気が治るようになるのですから。ただ、これを本当に実現していくためには、制度的な面、安全性の確認、さらには費用の負担、そういうことを総合的に考えていくことが必要です。
そして確実にイノベーションを実現していくためには、いつごろまでに何がどこまで可能なのか、そういうロードマップをきちんと描いて、それを着実に進めることが必要だということです。あまり過剰な期待は、かえってリバウンドが大きい、と思います。安全性もそうですが、確率論も含めて、どこまでが可能か、確実なメッセージを発信していくことが重要です。それがあって初めて地に足の着いたイノベーションが実現すると思います。
山野 森田先生、ありがとうございました。
(聞き手:山野泰子/編集:藤田正美)