政策ビジョン研究センター設立記念フォーラム

医療システムの危機(永井良三教授)

現在、医療が危機的状況にあると言われているが、なかなか全体像がとらえられないままに政策が混迷している。医療システムは複雑系で、簡単に誰かが悪いというものでもなく、中途半端に一つの要素をいじるとかえって混迷する。

人口動態の変化 −急速な高齢化−

日本の人口は、戦後のピラミッド型から、現在の釣鐘型になり、その後は逆三角形に近づく。これから団塊の世代が高齢化すると、多額の医療費が必要であるが、その負担のあり方が大きな問題となる。これからはたくさんの人が死ぬ時代になる。もっとも死亡率の低かった時代は、80年代で、年間1000人当たり6人だった。これが増え続けて、2050年になると1000人あたり14人近く亡くなる。今の2倍以上の人が毎年亡くなる時代となる。

医療費の配分と負担

医療費総額は32兆円くらいだが、75歳以上の医療費は約8兆円である。日本の国防費はGDPの1%で約4兆円だから、国防費の約2倍が、将来は国防費の3倍から4倍かかる時代を迎える。現在は高齢者医療費用の多くは、若い世代が負担しているが、今後どうするか。医療資源を地域や世代間でどう配分するか、また、負担をどのようにするかは大きな政策課題である。

この10年間に日本の医療は、量的にも質的にも、大きく変わってきた。この変化に対応できないために、社会的なクライシスが生まれつつある。少し前までは日本の医療費は高いと言われてきた。実際に絶対額は世界2位だが、対GDP比では、数年前で18位、現在は21位と低下している。医療費抑制策の影響は人件費に現れる。日本の病院では、病院収入における人件費を50%以下に抑えるのが重要だが、米国では人件費率70%以上の病院も多い。人件費が対GDP比の医療費に規定されているためである。

1ベッド当たりの看護師数と勤務体制の国際比較

米国と日本のトップクラスの病院で、1ベッドあたりの看護師数を比較すると、米国は日本の3—4倍であり、濃厚な治療ができる体制になっている。シンガポールや韓国、台湾のトップクラスも日本より多い。しかし人口当たりで比較すると、日米でそれほどの差はない。つまり日本の病院は非常に手薄であるが病院数は多く、米国よりアクセスを重視するという政策をとってきた。このことは、中等度から軽症の患者さんのケアにはよいが、集中治療の必要な救急や重症患者のケアには不適切である。例えば、集中治療室で労働基準法を遵守し、日勤、準夜、深夜と勤務体制を組むためには、2%のベッド運営に、11%の看護師を割かないといけない。医療が量から質へ転換を図るためには、まさに医療資源の配分に関するグランドデザインの見直しが必要である。

コスト・アクセス・質の関係

対GDP比の医療費を三角形の面積におきかえて考えると、米国に比べて日本は面積は1/2。底辺の長さは医療へのアクセスに相当する。日本は病院・ベッドの数が非常に多く、米国の3−4倍あるため、高さは1/6になる。しかしレベルを1/6にとどめておくわけにはいかないため、ここに赤い三角形、つまり過剰勤務や無給で働く人、特に大学病院では、大学院生も診療に動員することで、アクセス、一定の質の高さ、安い医療費という体制を成立させている。しかし赤い部分を担う若い世代が、自分たちは正当に評価されていないと言いだしたとたんに医療崩壊が始まってしまった。無理な体制で、高い理念、理想を追求してきた結果といえる。

医師不足は東京に研修医が集中したためではない

新医師研修制度により、東京に若い医師が集中するため、医療が崩壊したと言われる。しかし、新制度導入後、東京の研修医の数は400人も減少した一方、東北地方は約15%増加した。実際は当初の目的どおり、東京から研修医を引き離すことに成功したにもかかわらず、医師不足がなぜ生じたかということを考えなければいけない。実際のデータを見ないで議論する傾向があり、政策ビジョン研究センターにリーダーシップを発揮していただきたい。

規制による医療システムの硬直化

日本では公的病院が減りつつあるが、医療資源が残った病院に集まらずに患者が集中すると、その病院も崩壊する。病院の機能分担や集約化を進めなければならないが、それができない大きな要因は、病院の合併に対する規制である。こちらの研究もしていただきたい。なお、兵庫県や千葉県では、むやみな受診を控えようという市民レベルの運動も起こっている。社会とどのように協調するかも非常に重要な政策研究の課題である。

医療関連業務者

米国には何十万人も医療関連業務者がいて、医師の行う医療行為を支えている。日本でもPhysician Assistant(医療補助士)という制度が必要である。米国では40年程前にできて、医師の監督下で医療行為を行えるが、日本では医師が全ての医療行為を担わなくてはいけない。このPhysician Assistant制度は検討に値する。単に医師を増やすだけでは、今の医師不足は解決しない。

医療安全と刑事責任

医療事故の発生後、24時間以内に所轄警察署に届け出ないと、医師法21条違反となる。届出後は、警察捜査が行われる。しかし警察や検察が充分な知識を持っているわけではない。そこで、医療事故調査委員会を設置し、ここに届出を行う、また調査も行う方向で検討されているが、届出、警察への通知、検察による業務上過失の基準を明らかにしておかないと、かえって医療システムが混乱する。この点も重要な医療政策課題である。

医療危機への対応

医療システムには、臨床現場だけでなく、研究、教育、現場、行政、などさまざまな要因が、患者を中心として連携している。これを外部から制御することは困難であるが、自律的に制御できる体制を政策で誘導する必要がある。そのためにはシステムの透明性と評価体制が非常に重要である。

日本の医療システムには多くの優れた点がある。医療へのアクセスを保証しつつ、高い機能を果たすためには病院の機能分担が必須である。重症、中等症、軽症、介護の役割に応じた医療機関を成り立たせるためには患者さんが移動しなければならない。しかしこれも社会の同意が得られるよう政策を立案しなければならない。

医療費の増加は必須だが、どのように使うかという政策や、グランドデザインが必要である。診療所と病院の間の医療費の配分、機能別医療機関の配置なども重要な研究テーマだ。

Physician Assistantのような、非医師の医事行為の規制緩和ひとつとっても、おそらく日本中が議論沸騰するような問題であるが、誰かが音頭を取らないといけない。さらに、専門医フェローシップに対する公的支援、医療訴訟に対する刑事介入等の多くの課題があり、医療システムは政策研究の恰好の課題である。