まず安全基準から議論を
この記事は朝日新聞オピニオン
「耕論 原子力と民主主義」に2011年6月16日に掲載されたものです。
城山 英明 教授(センター長)
原子力行政に関する意思決定は完全に閉鎖的・非民主的だったわけではありません。1999年に東海村で起きた臨界事故や、2002年の東京電力による原発検査記録改ざん発覚の後には、検査・監視体制が強化されると共に、原発のリスクを住民に伝えようとする試みも続けられてきました。再発防止に加え、原発の運転再開・継続について世間の納得を得るための措置、という面がありました。
「原発は是か非か」というマクロレベルでの民主的議論はなかったが、「運転再開を認めるか」など、その場その場のミクロな意思決定には「国民や地域住民のまなざしを意識する」という民主主義的な要素が含まれていました。だが、全体の整合性を考慮せず場当たり的な対策を積み重ねていった結果、安全について誰が最終責任を負うのかが、あいまいになってしまった。それが福島第一原発の事故で顕在化しました。
ドイツでは総選挙を通じて国民が「脱原発」を選択しました。イタリアでも国民投票が行われました。他方、フランスや米国は原発推進を堅持するようです。日本でも、本来あるべき姿を求めるならば、政治の揚で原発のリスクと便益を明らかにする技術の社会影響評価を行い、包括的な議論をするべきです。だが、自民、民主両党の党内論議が活性化していない現状では難しいかもしれません。
より現実的なのは、原発の安全基準と放射性廃棄物の処理問題に限って、開放的な議論を展開することです。このままでは遠からず、日本の原発はすべて定期検査で止まってしまう。原発の再稼働の条件について早急に国レベルで結論を出さざるを得ない状況です。また、今回の事故で、使用済み燃料を原子炉のすぐ近くで保管することの巨大なリスクが明らかになりました。先送りにしてきた廃棄物処理の問題についても正面から議論しなければならない。
新たな基準に基づいて運転すれば、原子力発電のコストはおそらく上昇するでしょう。すでに存在する廃棄物の早急な処分も、コストに大きな影響を与えます。最終的にはエネルギー安全保障などとのバランスをどう考えるかという問題ですが、正面から脱原発を問わなくても、これらの議論の結果次第で、原発が増えるか減るかは自然に決まっていくかもしれません。
日本では原子力のアカデミズムが推進派と反対派にはっきりと分かれ、党派性を離れた多様な議論ができにくくなっています。それ無しでは、安全性や廃業物処分についての民主的な議論などできません。今回の原発事故は国際的に注目を集めています。海外の知見を国内の議論にどんどん取り入れ、多元的な物の見方を確保するべきでしょう。