経済教室 IT戦略を問う 下 — 高度な人材育成の強化を

東京大学工学系研究科教授 兼 政策ビジョン研究センター教授 坂田一郎

記事PDF

この文章は日本経済新聞「経済教室」に 2013年8月30日に掲載された原稿です。

坂田一郎 教授

ポイント

  • 情報の蓄積は進むが社会での活用が不十分
  • 情報生かすビジネスモデルの構想力が不足
  • 安倍政権はIT国家創造へ強い意思を示せ

各種の電子情報メディア、インターネット、無線通信、センサー等の進歩と普及により、電子的に記録、保存される情報量が飛躍的に増大するとともに、対象となる情報の種類も増加している。例えば、ソーシャルメディアの登場により、かつての井戸端会議での内輪話のような会話も、電子的に記録され、再利用が可能となった。そうしたことに伴って、社会からビックデータへの期待感が高まり、大量に、かつ、利用コストが低い形で蓄積された情報から、有用な知見や便利なサービスが次々と生まれることが想起されている。

また、全数の情報収集が難しく、収集した情報の利用コストも高かった過去においては、利用段階において、情報のサンプリングが欠かせず、それに伴う分析結果の歪み(バイアス)が活用の制約となることも多かった。全数を扱えるようになれば、それも過去のものとなる可能性がある。期待が高まる一方で、現実には、情報の量や種類の増加と比べて、経済社会において活用される情報の量や種類はごく一部にとどまっている。有用な情報が蓄積されながら、活用されない「埋没現象」が生じているといえる。

これについては、2つの側面がある。一つは、我が国と世界の先進国家との溝である。世界の技術開発をリードするとともに、企業社会や公官庁においてクラウド化、オープンデータ化(官を含めた情報公開)を迅速に進めるアメリカや北欧等と比較して、我が国での情報利用の立ち遅れが目立っている。

もう一つは、分野間の凹凸である。既に有効に活用されているPOSデータのような購入履歴、近年、利用が急速に進みつつある検索履歴やソーシャルメディア上の情報がある一方で、公的機関内の記録、電力の利用、診療や検診等の情報は、非常に限られた形でしか利用されていない。総じて、官に近い分野ほど、情報の利活用が進んでいないといえる。

埋没現象の背景には、三つの「壁」が存在している。それは、①技術及び人材の不足、②情報を有効に活かすビジネスモデルの企画構想力の不足、③情報の利活用を進めるための社会システムの不足である。情報は蓄積しただけで価値を生むものではない。今の状況は、情報の急速な蓄積に、それを活かすための処理技術やサービスの進歩が追いついていないと捉えるべきであろう。

今、注目されている情報処理の技術としては、人間が使う言葉をコンピュータが扱える形にする自然言語処理、行為者等の関係についての法則性を探るネットワーク分析、訓練のためのデータから法則性を自動的に見出しそれに基づき予測等を行う機械学習やそれらの応用技術が代表的である。こうした技術開発の世界で、日本はアメリカ等に水を空けられている。世界のトップ論文誌の幾つかでは、日本の研究機関発の論文のシェアは数%にとどまっている。

同時に、こうした技術を使いこなす情報科学者(データサイエンティスト)の数も不足している。グーグルやマイクロソフトの事業展開に先だって大学院レベルの情報科学者を大量に養成してきたアメリカに対し、日本でその養成が本格化したのは90年代末以降であり(図参照)、この結果、日本のビジネス界では、腕の立つ情報科学者を奪い合うという状況に陥っている。

二点目については、情報の入手や蓄積のコストが下がったとはいえ、分析を含めたコストは依然として大きいことを認識する必要がある。情報の分析と活用が付加価値を生むことで、情報収集や分析システムを維持するための資金が流入するとともに、一層の情報蓄積を促すといった好循環を生み出すビジネスモデルが必要である。Googleはその代表例といえるが、日本においては、そうしたモデルが次々と生まれる環境にはない。その原因の一つは、分析をする側が、情報分析により対応すべき市場ニーズや解決すべき社会課題を的確に把握出来ていないことにある。情報科学者の関心は技術に偏りがちであり、市場や課題を深く知る人材との間に溝がある。

もう一つは、ビジネスモデルを支える技術力の不足である。過去の購入履歴をそのまま用い、だれに対しても同じ推薦を行う日本の電子書店と、iPhoneのアプリ等を対象にアメリカ発で既に実用化されている、機械学習を駆使してユーザー別に購入の候補としたくなるような商品を予測し、その自動推薦を行うサービスとでは、サービスの付加価値がかなり違ってくる。

三点目の情報の利活用に欠かせない社会システムとしては、①情報の保護と利用に関する規則や標準、②情報のセキュリティ確保に関する基準、③個人のマイナンバーや企業番号のように、同じ主体に関する複数の情報を紐付け、重ね合わせを可能とする仕組みが重要であると考えられる。

保護や安全性確保の程度、利用の範囲に関する社会的合意が不十分であれば、情報利用に伴うビジネスリスクは高くなる。また、診療情報と健康診断の情報のように複数の情報の重ね合わせにより情報が持つ付加価値が高まる場合が多いが、情報があっても紐付け、関連づけが出来なければ、そのチャンスを失う。一般に、投資の多寡は、期待収益率とリスクに依存する。リスクが高く、チャンスを捉えにくいような社会では利活用は進まない。分野別の情報の利活用度の差異は、これら社会システムへの依存度の高低から生まれている面が大きいといえよう。

世界最先端の情報利活用を実現するためには、先に挙げた3つの壁を乗り越え、2つの側面の情報埋没を解決することが必要となる。今年6月に発表された政府の世界最先端IT国家創造宣言は、この3つの壁と2つの側面に対処するために必要な施策をかなり広く包含していると評価できよう。その上で、成長戦略の深化のために、三つのことを提言したい。

最も重要なことの第一は、世界最先端IT国家創造への強い意思を示すことで、戦略を紙に書いただけのものとしないことである。

アメリカのオバマ政権は、発足時に医療制度改革とエネルギー市場改革を2大政策課題として掲げた。これは、社会課題の解決と経済成長双方の効率的な実現のために、ITの利活用において取り残された巨大市場であった医療とエネルギーの分野に焦点を絞って、国家としての強い意思を示しながら、ITを梃子に構造改革を一気に進めようとしたと見ることができる。意思が薄らいだと見られれば改革は失速する。我が国でも、公共部門、エネルギー、農業、医療等を重点領域と定めつつ、先行投資を呼び込み、また、抵抗を排除するために、官邸が強い意思を示し続けることが欠かせない。

第二に、特別なスピード感を持つことである。ITの進歩やその利活用による社会・経済の変化は驚くほど早い。他の分野に慣れてしまうと必ずスピードを見誤ることになる。また、「世界最先端」を掲げる以上、競争相手国を上回る速さで実行することが必要である。先の戦略上は明確ではないが、相手の動きを常に調査し、戦略の改訂に反映させる機能が必要であろう。

加えて、戦略の企画や推進のために、世界の最前線を知るネットネイティブ世代の若手を多数、政府内で意思決定に関与する立場に登用することが必要である。

戦略の実効性を高める手法として、課題ごとに達成度を図る指標(KPI)や工程表を作り実行プロセスを透明な形で管理する姿勢は評価できるが、そのことがすぐ出来ることの先延ばしにつながることは避けなければならない。例えば、政府の電子行政サービスの評価について、ウエブサイトへのアクセス数、利用者のサイト内での滞在時間、閲覧したページ数(ページビュー)等の把握や分析は、今日からでも可能であり、工程すら必要は無いはずである。

第三に、先端技術と人材育成の強化である。先に述べたように、我が国は人工知能や情報処理技術において世界をリードする位置にはいない。市場や産業の成長に先だって、インド等海外から人材を呼び込みつつ、大学院レベルの高度人材の育成を進めたアメリカと比べ、我が国では、人材の層も薄く、教育体制も不十分である。技術と人材という基礎力の強化がなければ、戦略も実行力を持ちえないとの認識に立ち、国家的投資が必要である。