「空気」の研究

※下記の放送内容は、2009年の森田教授コラム 「空気」の研究 をもとに作成されました。

NHK「視点・論点」 2010/09/15(火) 教育:PM22:50-23:00 / 総合:AM4:20-4:30(再)

森田教授出演 

「空気の研究」という題を付けましたが、地球温暖化対策の話をしようというのではありません。ここでいう「空気」は、いわゆる「空気が読めない」の空気です。

言論の自由が保障されている現代、誰でも他人の名誉や権利を侵害しない限りは、自由にものをいうことができるはずです。しかし、実際には、誰もが感じていながら、あるいは全員がそうであると認識していながら、それを口に出してはいけないこと、まして否定することなどは許されないことがあります。そこにある見えない呪縛、それがここでいう「空気」です。

それに触れることはタブーであり、あえて触れたり、そのようなみえない呪縛を理解できずに口にすると、「空気が読めない」といって周りの人から非難され、最悪の場合には仲間はずれにされてしまうのです。

このような、社会の暗黙の呪縛を「空気」と呼んだのは、山本七平氏です。山本氏の著書『「空気」の研究』では、第二次大戦中、戦艦大和の出撃の決定に関わった専門家が皆、それは無謀であって勝ち目はない、と思っていたにもかかわらず、反対できなかった様子が、「空気」の支配の典型例として描かれています。

また、政治学者丸山真男氏も、「軍国支配者の精神形態」という論文の中で、

「彼等はみな、何者か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐ろしさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。・・・」
丸山真男『現代政治の思想と行動』91-92頁

と述べています。

 この皆を駆り立てる「何者か見えざる力」こそ、ここで「空気」と呼ぶものです。他愛のない日常会話での空気の支配はともかく、国の運命がかかる重要な決定の場面で、あるいは国の進路に関わる世論の形成において、こうした空気が支配することは的確な判断を困難にすることになりかねません。言論の自由が謳歌されている現代においても、こうした空気がわれわれの理性を狂わせ、合理的な政策決定を妨げることが少なからずあるように思います。

このような視点から、現在報道されているさまざまな議論をみてみますと、確かにその背後には、ここで「空気」と呼んでいる暗黙の前提が存在しており、それが正面から問い直されることもなく、またそれと異なる考えが存在することも伝えられていないように思われます。そうした「空気」に対して「水を差す」と厳しく糾弾されかねません。そこで、メディアも読者も、糾弾を恐れ、その場の「空気」によって呪縛されてしまうのです。

しかし、多くの人たちが、このような空気に支配されたまま決定を行うと、それこそ、誰もが回避したいと思った戦争に、皆が賛成し突入していった過ちを繰り返すことになりかねません。それを避けるためには、何よりも「空気」を可視化、すなわち見えるようにして、その存在を認識し、その性質を客観的、批判的に明らかにすることが必要です。

現在の日本では、例えば「諸悪の根源は官僚である」、あるいは「地方へ権限も税源も移譲すべきである」、「社会保障をもっと充実すべきである」、というような主張に対しては、反対意見を述べにくい雰囲気があるように思います。それもここでいう「空気」の支配です。官僚を弁護し、地方分権に反対し、社会保障の削減をいおうものなら、厳しい糾弾を受けかねません。

お断りしておきますが、私は、これらの主張が間違っているといっているのではありません。私たちが歴史上経験してきたように、一面的、一方的な空気に支配された決定が、誰もが意図せず望みもしない方向へ社会が進むことを、阻止できない可能性があることから、空気の支配に対してあえて水を差すことによって、批判を試み、多様な観点から議論をし、できるかぎり合理的な決定に近づくようにすべきである、といいたいのです。

ところで、このように「空気」は見えない存在ですから、それ自体、論理的に矛盾がない主張であるとは限りません。矛盾をなくすためには、矛盾する要素のどれかを変えるか、放棄しなければならないはずですが、そうした「空気」に反する発言は糾弾を受けることになりかねません。

現在のわが国では、少子高齢化、人口減少、さらに財政難のため、年金、医療を始め、将来の社会保障について不安感が漂っています。「安心・安全」ということがいわれますが、その策が講じられたとしても、それは現在ないし近未来の高齢者にとっての安心ではあっても、現在の若者にとってはむしろ不安の増加にほかなりません。しかし、現在の財政状態では、このまま社会保障を拡大していくことは困難でしょう。当面はともかく、長期にわたって持続可能な福祉国家を維持していくことは不可能と思われます。

それならば、増税して、財源を増やせばいいではないかというのが筋論ですが、先日の参議院議員選挙の結果が示しているように、それに対する抵抗は強く、政党もメディアも、増税せずに社会保障の充実を図る、といわざるをえない雰囲気です。

しかし、財源がない以上は、負担増がいやならば、年金の減額、医療費の自己負担の拡大等によって、社会保障サービスを削減すべきある、という主張は聞かれません。「空気」によって、封じられているといってよいでしょう。そこで、この矛盾を解くべく、しばしば、そして頻繁に主張されるのが、昨年来の事業仕分けでも主張された「行政には無駄が多い。それを減らせば、財源は充分に捻出できる」という「行政改革論」と「日本の潜在的技術力、国際的競争力はまだまだある。もっと研究開発に投資をして技術力を高め、経済を成長させれば、税収を増やすことができる」という「経済成長論」です。

いずれも間違っているというつもりはありません。しかし、将来の社会保障負担の大きさと、現在の債務残高を考えると、これらの策は果たして根本的な解決策といいうるでしょうか。それについての検証は充分に行われていませんし、そもそも増税とサービスの削減を選択の問題として提示するところがほとんどないのはどうしてでしょうか。

政党もメディアも、ある党は「増税なし、しかし福祉サービスは削減。」他の党は「高福祉の維持、しかし増税。」といった具合に具体的な処方箋を示すべきですし、新聞も同様に、それぞれが異なる筋の通った選択肢を提示すれば、分かりやすく、有権者もそれを比較して選択すると思いますが、現実は、政党もメディアも、増税論議はするものの、「空気」によって支配され、社会保障サービスの削減を口にするところはありません。その間、将来の世代の負担は確実に増え続けていきます。

私は、このままでは、わが国はこのような「空気」の呪縛から抜け出すことができず、どんどん蓄積する借金の山を前にして、苦し紛れに「最後には、きっと神風が吹く」と主張し、そしてそれが吹かなかったとき、誰もが「私はそうは望まなかったのに、こうなってしまった」という事態に陥ることを恐れます。そうならないように、私たちは、今こそ、まずわが国の「空気」がどのようなものか認識し、批判を恐れず、それに「水を差す」勇気をもたなければならないと思います。