人材移動に伴う技術流出の実証分析
The effect of researcher mobility on organizational R&D performance: researcher mobility and innovation.
2014/4
このワーキングペーパーは2013年12月に、東京大学政策ビジョン研究センター 知的財産権とイノベーション研究ユニット 知的資産経営研究講座 の研究成果として取りまとめたものです。全文は下記PDFをご覧ください。
概要
日本経済は、1990年代初めのバブル崩壊以降、長期的な低迷を続けてきた。2000年代に入ると、BRICSが目覚ましい成長を遂げ、とりわけ中国が急速に台頭し、コスト競争が激化する等市場に大きな変化が生じた。このように日本経済を取り巻く環境に大きな変化がある一方、日本は未だ低迷状況から脱却できず、ますます世界での存在感を失いつつある。その典型例がエレクトロニクス産業である。1980年代には、日本の製品は、高い技術力で世界から注目され、日本のものづくりは、プロダクトのみならずプロセスまでも研究の対象とされた。しかし、1990年代以降、日本の産業は世界での競争力を失い、代わりに韓国や台湾等の新興国の企業が台頭してきた。2000年代に入ると、日本の電機メーカーは大規模なリストラ等により立て直しを図ったが、未だに回復の兆しは見えない。
日本のエレクトロニクス産業が産業競争力を失った一因として、研究開発が事業や収益に結びついていないことが考えられる。例えば、売上高研究開発費率が、収益性に対して負の影響があるとする研究結果がある(玄場公規『製造企業のサービス化の定量分析』、2012)。このことは、研究開発の成果を企業の収益に結び付ける過程、すなわち、イノベーションの効率性に重大な問題が生じていることを示唆しているものと考えられる。なぜ、日本企業は、莫大な研究開発費を投じてもイノベーションにつなげることができなかった一方で、韓国や台湾企業はこの10年で急成長を遂げることができたのであろうか。その一因として、日本企業から優秀な人材が流出し、韓国、中国等のアジア企業へと移動したことがあるのではないかと考えられる。すなわち、日本企業ではリストラの過程で、優秀な研究者も同時に流出させる一方、アジア企業ではそのような日本企業出身の優秀な研究者を採用することで、自社の研究開発に活かしていった可能性について検証を試みた。
そこで、本研究においては、二つの仮説を設定し、分析を行った。第一の仮説では、日本から新興国へ移動した人材に着目し、どのような日本人研究者が韓国や台湾等の企業に移動したのかについて分析を行った。日本企業から韓国等のアジア企業へ移動した研究者と、彼らと同じ企業に所属しながら移動しなかった研究者を比較することで、韓国、中国等の企業は、どのような日本人研究者を採用する傾向にあるのかということが分析可能であるからである。第二の仮説では、日本企業からアジア企業へ移動した研究者の中で、どのような人材が移動先企業でのイノベーションに貢献してきたのかについて分析を行った。イノベーションに貢献し得る研究者の特性を把握することにより、流出させるべきではない人材、企業のイノベーションにとって必要な人材について分析可能であると考えられるからである。
具体的な研究手法としては、日本の電機メーカーが出願した米国特許約27万件と、韓国の特許約7万件、中国の特許約5万件、台湾の特許約5万件のデータを対象とし、特許上の発明者名をすべて抽出し、日本企業から韓国企業、中国企業、台湾企業へ移動したと考えられる人物名を特定した。さらに、すべての発明者について、それまでに関わったすべての特許についての被引用回数合計、引用回数合計、IPC番号の集中度を示すHHI指数、初出願年からの経過年数等を算出した。また、特許の出願人名から各研究者の出身企業を特定し、その企業規模を売上高で分類し、各人の特性を示す指標の一つとした。さらに、本研究では、発明者が出身企業において社内でどのようなポジションにあったのかを示す指標を算出し、発明者の特性を示す指標として用いた。これは、個人同士の繋がりの関係性を示す代表的な研究である社会ネットワーク理論を用いたものである。社会ネットワーク理論の中心性指標には、次数中心性、近接中心性、媒介中心性、固有ベクトル中心性という代表的な4つの指標があるが、本研究ではアジア企業が日本人研究者を採用する際、技術に関する専門的な知識を有するだけではなく、社内で様々な情報が集積するような立場にある研究者を選択的に採用しているのではないかという仮説に基づき、ネットワーク内での影響力や情報集積度を示す固有ベクトル中心性を用いることとした。
第一の仮説に関しては、日本人発明者を対象にして、移動した場合と移動した場合の二値のプロビット分析を行い、各発明者の持つ特性のうち、どの要素がアジア企業への移動に大きな影響を与えているのかについて分析を行った。また、第二の仮説に関しては、パネルデータを用い、固定効果モデルとランダム効果モデルにより知識生産関数の推計を行った。具体的には、アジア企業のイノベーションの成功度を特許の数および特許の質で測り、それについて移動した日本人研究者のうち、どのような特性が貢献したのかを分析した。
日本から韓国、台湾、中国へ移動した発明者に関するデータ分析の結果、日本企業からサムスンへ移動した研究者は2004年をピークに減少傾向にあること、またサムスン以外の韓国企業へ移動した研究者は2003年をピークに減少傾向にあることが明らかになった。一方で、台湾企業への移動は若干の増減はあるものの一定数の移動が継続していること、中国企業への移動は近年増加傾向にあることが明らかになった。また、移動先企業での特許を詳細に分析すると、韓国企業へ移動した日本人研究者は数人の日本人研究者と同じグループで研究活動に従事している傾向にあるのに対し、台湾企業へ移動した日本人研究者は現地研究者数人とともに研究活動に従事していることが明らかになった。このことは、韓国企業は日本人研究者に研究開発結果を求めるのに対し、台湾企業では現地研究者の指導的役割を果たすことを期待している可能性があることを示唆しているのではないかと考えられる。すなわち、韓国企業と台湾企業では、日本人研究者に対して期待していることが異なっており、採用に当たっても異なるタイプの日本人研究者を求める可能性があるものと考えられる。日本からアジア企業へ移動した発明者の基礎データ分析結果に基づき、以下の2つの仮説分析を行った。
第一の仮説に関しては、アジア企業へ移動する人材について、人材の質やインフォーマルなネットワークという観点から実証的に分析を行うため、移動した場合を1、移動しなかった場合0とする二値のプロビット分析を行った。これは、日本企業から韓国企業等へ移動した研究者と移動しなかった研究者の間で、優秀さや経験年数、技術分野の幅、社内でのポジション等に違いがあるかを分析するものである。分析の結果、サムスン等の韓国企業へは、各研究者が関わってきた特許の被引用回数の合計と固有ベクトル中心性が高い日本人研究者が移動する傾向があることが明らかになった。このことは、サムスン等の韓国企業では、日本企業の研究者の中でネットワーク内での影響力が強く、情報が集積する地位にあり、かつ優秀な人材を選択的に採用している可能性があることを示唆している。さらに、サムスンや鴻海ではHHI指数がマイナスであったが、それ以外のアジア企業ではプラスとなった。このことは、サムスンや鴻海のような成長企業では、様々な技術分野での経験を持つ研究者を採用する一方、その他の韓国、台湾企業等では特定の分野に特化した研究者を採用する傾向にあることを示唆している。
第二の仮説では、日本企業から韓国、台湾企業へと移動した人材の質がイノベーションに与える影響について実証的に分析を行った。その結果、新興国企業のイノベーションについて、特許の数で測った場合には、HHI指数がプラス、経験年数がマイナスとなった。このことは、日本からアジア企業へ移動した人材のうち、若手の研究者や専門性の高い研究者がアジア企業の数で測ったイノベーションに対する貢献が大きいことを示唆している。また、アジア企業のイノベーションを特許の質で測った場合には、移動した日本人研究者はイノベーションに大きく貢献していること、特に経験年数の長い人材ほどイノベーションに貢献することが明らかになった。このことは、特許出願を増やしたい企業にとっては、若手で特定の技術分野に特化した研究者が向く一方、企業の発明の質を向上させるためには、経験年数の長い研究者が向いていることを示唆している。以上の分析から、サムスンのような急成長企業は、幅広い技術分野の経験を持つ優秀な研究者で、かつ情報が集積する影響力の大きな地位にある日本人研究者を戦略的に採用し、自社の発明の質を向上させてきた可能性があるのではないかと考える。一方で、今後成長が見込まれるアジア企業では、日本企業の中でも比較的若手で、特定の分野に特化した研究者を採用し、まずは多くの発明を行うことに注力しているのではないかと推測される。