安心して暮らせる活力ある長寿社会の実現を目指して

1.医療の仕組みの再構築−「地域」「救急」「産科」崩壊の問題を根本的に解決

(1)問題の正確な認識

昨今の医療崩壊は、平成16年度の初期臨床研修必修化に伴う研修医の都市への集中が主原因と言われている。また若手医師が厳しい医療現場を避けるようになり、外科・救急・産科などで医師不足が顕著になったとも言われている。しかしそれは原因ではなく結果を説明しているに過ぎない。

わが国では医療の提供に対して、たとえば医師不足地域へ研修医を多く配置するという発想に代表されるように、質よりもアクセスが重視される傾向がある。医療のコストは、医療の質と、提供する量(アクセス)の積として決めることができる。このため、アクセスを維持しながら質を高めることは、医療のコストが上昇し続ける時代には可能であった。しかしコストの上昇が期待できなくなった近年でも、高い医療技術や高い安全性等の医療の質向上への期待がますます高まっているため、アクセスの維持は極めて困難になりつつある。そのような状況下でも、現場を預かる医療従事者の使命感によってアクセスは維持されてきたが、その陰で低賃金の非正規雇用の若手医師や無給の大学院生などがしわ寄せを受けてきた。またしわ寄せを受ける人員的余裕がない医療現場では、アクセスの維持が困難となり、いわゆる医療崩壊が進行することとなった。

<図3>アメリカでは質を維持するためにアクセスが制限されており、うす緑色の三角形を実現。日本では質を維持しつつ(赤三角形)アクセスを広くしている(うす緑色)が、赤三角形部分の維持が難しくなっている。
(東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:東京大学 医学部附属病院 永井良三教授資料)

必要な医療への資源の再配分など

研修医は2年間の研修期間中は単独で医療を提供できないため、初期研修の必修化により2年分の医師が医療現場から消えたことになる。その結果、少人数で維持されてきた地域の中核病院は機能しなくなった。特に、わずかな欠員が体制維持を困難にする、24時間体制やチーム医療が必須の外科・産科・救急などが最も大きな影響を受けた。医療体制の整わない病院では満足な研修を提供できないため、研修医も集まらなくなった。しかし必要なことは研修医を集めることではなく、単独で診療可能な医師を、必要とされる医療現場に集めることである。医療体制が不十分な病院で研修を提供することは不可能である。そこで当面は指導体制が整った都市部の病院が研修を担当し、独立して診療ができるようになった医師を地方へ配属するような仕組みが必要である。

(2)解決策の選択肢

負担やリスクに応じたインセンティブ付け

地域医療を担う病院については、期待される機能ごとに医療提供を可能にする医師数・看護師数などの最小単位を決め、それを確保するための方策を検討しなくてはならない。医局による医師派遣機能が期待できなくなった今となっては、負担やリスク(緊急呼出しや長時間手術など)に応じたインセンティブ付け(例えば報酬や休暇、留学制度など)が必要である。

病院のグループ化・階層化

我が国の医療機関には、諸外国に比べて人口当たりのベッド数やCTやMRIなどの高額医療機器が多く、ベッド当たりの職員数が少ない。これは医療資源の分散により急性期医療の実現を困難にし、また経営の悪化につながっている。

この問題を解決するためには、医療機関ごとに機能を特化し、複数の病院で総合病院の機能を有するようにグループを構成することが望ましい。その際に公立病院は民間のできない医療、特に昨今医療崩壊していると言われている外科・救急・産科などを含む急性期医療を担うべきである。

専門補助者の制度導入など

現在の体制を維持しながら上記の対策を実現するためには、医療従事者の大幅な増員が必要になる。養成数を増加したとしても、その効果が現れるまでの期間は、看護師は3〜4年間で済むが、医師は10年以上を要する。医療崩壊を是正することは喫緊の課題であり、より短期間で医師不足を補う対策が必要である。

現行法上、医師の診療の補助と解釈できる範囲内であれば、看護師が医療を提供することが可能である。しかし医学の進歩に伴い、複雑な管理を要する患者が増え、看護業務の専門性が高まったことから、看護師は医師の補助にまで手が回らなくなってきた。その結果、かつての医師の補助業務を医師自身が行うことになり、業務量の増加がさらに医師不足に拍車をかけている。

本来医師は専門職として高度な知識や技術を要する場面に専念するべきであり、補助業務担当者の不足を医師数増加で補うべきではない。この問題を早急に解決する方法として、アメリカのフィジシャンアシスタント(PA)のような、医師の補助を行う専門職制度を創設することが挙げられる。

新制度創設の際には、既に臨床現場で働いている歯科医師、看護師などを対象に、一定期間の研修の後に国家試験を経て資格を付与することが想定できる。可能な業務範囲の設定によっては、医師数増加に近い効果が見込めるため、短期間で医師不足を解消することが可能となる。

2.医療情報の統合・活用の仕組みの創設−質の高い医療をいち早く提供する

(1)クリニカルデータ利用の現状

医師は一人一人の患者に対する治療経験により育成され、診療情報であるクリニカルデータはすべてカルテや臨床検査、画像検査などの結果として蓄積されている。従来のクリニカルデータは、医療従事者の個人的な経験として利用されるのみであったが、電子カルテの普及に伴い、文字情報としての診療記録のみならず検査や画像データも含めてクリニカルデータのデータベース化が可能になる。知の構造化の手法を用い、情報を統合、解析処理することで、診断や治療はもとより、創薬や医療機器の開発、医療人材の教育、医療の効率化、安全性の向上などに結びつけることも可能である。

(2)統合・解析・活用によって生まれるメリット

診断の質の向上、無駄な投薬・検査排除、効果的な治療法の迅速な普及、都市と地方の情報格差の是正、創薬・医療機器開発の効率化

 クリニカルデータに含まれている、個々の疾患に関する症状や所見、検査データ、画像データを解析することで、エビデンスに基づいた診断や治療が可能となる。また検査や投薬を含む治療の結果を解析することで、無駄な投薬や検査を削減し、効率的な医療が実現できる。

また高度であるとともに効率的で安全性の高い医療を提供している医療機関が有するクリニカルデータを診療支援に用いることで、地方や小規模の医療機関においても、その経験を共有することが可能になる。それにより、指導者や経験が不足しがちな地方中小病院にも若手医師を誘引することが可能になり、医師の地域偏在の是正に役立つ。

さらに特定の病態に対する、特定の薬剤や医療機器の効果を、事後的に収集することが可能になるため、創薬や医療機器開発における基礎データの収集を効率化することが可能になる。

<図4>東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:東京大学 医学部附属病院 永井良三教授資料

(3)国内外の先進的な動き

国内では、急性期病院の入院医療費に対して導入されている、疾患ごとの定額払い制度であるDPCのデータを用いた研究が進められている。例えば、国立大学病院データベースセンターでは、DPCで集計している、実施された治療内容であるレセプトデータを全国規模で分析して、経営的な視点から治療内容の標準化や適正化を目指した研究が行われている。

さらに先進的な動きは海外で開始されている。例えばEUで進行中のHEARTFAIDプロジェクトでは、慢性心不全を対象として多国籍の大学・研究所・企業11機関が参加し、検査や画像などを含むクリニカルデータを蓄積・構造化し、データベースからの新たな発見や、意志決定支援システムとしての利用が行われている。

(4)具体的な課題と解決策の選択肢

 医療の知の宝庫ともいえるクリニカルデータは、有効に活用されずに死蔵されているが、それをデータベースとして活用することで、国民が得られる効用は計り知れないものがある。

我が国では、クリニカルデータのデータベースとしての利用に関して最も障壁となっているのは、それがセンシティブな個人情報であるために生じる取り扱いの問題である。その解決のためには社会的なコンセンサス形成及び、クリニカルデータ取り扱いに関する適切な規制の策定が必要となる

東京大学として、この課題に先進的に取り組む海外の研究機関ともネットワークしながら、社会的なコンセンサス形成に向けてまず行動する。

3.「再生医療」という先進医療を国民の元に早く届ける

(1) 我が国の再生医療の現状(多数の研究開発、海外に比べ少ない実用化)

疾病や外傷、または先天奇形による組織欠損に対し、自己又は他者からの組織を培養して不足部分を補填する再生医療が国際的に脚光を浴びている。 わが国の再生医療研究は国際的にも先行グループに属しており、自己細胞による再生医療である体性幹細胞研究においては、海外よりも幅広い臨床応用例が報告されている。

 現時点で最も実用性が高いのは自己細胞による再生医療であり、諸外国において既に多数の商品化が行われている。しかし我が国では適応範囲の狭いわずかな商品しか実用化されていない。産業界のみならず医療界、治療を受ける国民にとって大きな恩恵となる技術であることを考慮し、再生医療の産業化を促進するべきである。

<図5>東京大学政策ビジョン研究センター作成
(参考:“自己細胞再生治療法”法制化の考え方,ティッシュエンジニアリング2007 自己細胞再生治療法ワーキンググループ)

(2) 再生医療の実用化を妨げている壁

 本来、基礎研究、前臨床試験、自主臨床研究、大規模臨床試験、産業化まで、医療制度だけでなく、特許戦略も含めたトータルでシステマティックな改革が必要と考えられる。ここでは、具体的な課題を一つ取り上げる。

自己細胞における再生医療を実用的なものにするために、組織の採取や移植は医療機関が主体となり、細胞の管理・培養・運搬は企業が主体となることが望ましい。しかし企業が主体となる場合の薬事法による規制は再生医療に適していないため、通常は医師法に基づく臨床研究として医療機関で進められている。その際に、薬事法第55条(販売、授受等の禁止)の制約により、医師が細胞採取から再生組織の作製、患者への移植に至るまでの全過程を同一病院内で行うこととされている。したがって、その成果に基づいて企業が治験を行う際には、組織・細胞搬送技術や取り違え防止などの品質管理技術を含めた安全性のエビデンスに関しては、改めて企業が莫大な投資をして収集しなければならない。そのために企業は参入を躊躇せざるを得ない状況となっている。

<図6> 東京大学政策ビジョン研究センター作成

(3)解決策の選択肢

テーラーメイド、技術を正面から見据えた評価の仕組み

自己細胞による再生医療では、移植組織が体外での培養過程を経ているとしても、生体としては自己組織であり、再生医療とはそれを扱う技術であるため、従来の薬事法の対象とは大きく異なっている。そのために薬事法での安全性や有効性の評価方法や審査プロセスを適用する具体的な基準が不明確となり、それが承認の取得を困難にしている。

また薬事法は、不特定多数に対する画一的な製造販売が対象であるため、自己細胞のテーラーメイド加工技術である再生医療に対しては、治療の実態とかけ離れた確認事項までも評価基準にしており、それも承認を妨げる原因になっている。

評価基準の例
(医薬品毒性試験ガイドライン 平成元年9月11日薬審1第124号)
発がん性試験ラットに再生組織を移植して評価を行う。しかしヒト由来テーラーメイド再生組織製品がラットに移植されると、激しい拒絶反応が予想される。
炎症性の評価ラットの皮膚に塗布して評価を行う。しかし3次元複合再生組織は有形の組織であるため、どのようにして塗布するのかが明確ではない。

施設の間、産学の間の移動・連携に関するルール作り

再生医療は医師法に基づく臨床研究として開始されているが、これは治療行為としては自由診療となるため、ルールがほとんど存在していなかった。すなわち薬事法におけるルールが厳格であったために、かえってルール不在の状態が招かれたことになる。

この問題を解決するためには、医師法に基づく臨床研究に対して一定の基準を設け、それを満たせば多施設共同研究を許可するように、薬事法第55条に除外規定を設けることが必要である。この際に満たすべき基準については、技術の濫用を防ぎ、安全性が担保できるよう、十分な検討をされたものでなくてはならない。東京大学として学術的知見から基準づくりに対し貢献をしていく。

<図7>(参考)再生医療の発展による3次元複合組織の実用化がもたらす新しい医療により、合計2500万人以上が罹患する疾患群をターゲットとすることができる(出典:東京大学 医学部附属病院 高戸毅教授、星和人特任准教授資料 平成17年度厚生労働省患者調査を参考に編集)

4.70歳−80歳代の方々が快適に暮らせるコミュニティのモデルを世界に先駆けて作る

(ジェロントロジー)

(1) 世界における高齢者コミュニティの現状と課題

欧米、オーストラリアでは、「リタイヤメント・ビレッジ(Retirement village)」と呼ばれる高齢者の集住コミュニティが多く作られるようになっている。これは、比較的裕福な高齢者が集まって住むモデルである。ただし、現状では、単一の確立したモデルには至っていない。

我が国やアジアには、高齢者のみが集住するコミュニティのモデルは、適合しないと考えられる。

また、Age-Friendlyな街づくりのためのガイドがWHOやカナダ政府により作成されている。日本では既に実現していることも多く、そのまま我が国に適用できるものではない。また、先端技術の活用といった視点に乏しい。

様々な年齢階層の住民が交わって住む日本型のコミュニティのモデルを独自に創り出していく必要がある。それが出来れば、アジアの諸国にとっても活用可能なモデルとなる可能性がある。

(2) 日本における社会コミュニティ作りの課題—若者・中年を標準に考えてきた社会の仕組みの総合的な変更

現在の日本のコミュニティは、バリアフリー化は進展したものの、依然として、若者と中年層を標準とした構造となっている。

健康な場合でも加齢とともに体力や機能の低下が避けられない。『高齢者を標準としたコミュニティ』に構造を変えていく必要がある。大都市圏周辺の高齢化率の上昇速度が速いとの予測を踏まえると、特に、大都市圏周辺での対応が急務である。

また、今後、我が国では、未婚で子供の無い高齢者の大幅な増加が見込まれている(45−49歳の男性の未婚率:1980年2.1%→2005年14.0%)。こうした方々にも必要なサポートを提供する仕組みが必要である。

(3)知の基盤としてのジェロントロジーの活用

高齢者にかかわる学際的な学問として、「ジェロントロジー」が世界的に注目されている。ISI社のデータベースでこの分類に登録されている論文誌に掲載されている論文を抽出すると69,403本存在する。内容的には、体の機能障害、認知機能、高齢化メカニズムといった体の機能に関するテーマ、看護・介護等の公的なサポート、社会参加や民のネットワークによるサポートといったテーマが中心となっている。

社会をイノベーションするには、視野を広げ、政府主導の発想から抜け出る必要がある。また、資源や時間が限られる中で、エビデンスに基づく政策立案が欠かせない。従って我々は、住宅・都市、交通、法的な保護等を含めてジェロントロジーをさらに幅広く捉え、政策選択肢の立案の知的基盤として活用すべきである。

(4)解決策の展望

第一に、医療、交通、住宅、身体・認知機能補助、公的・民間コミュニティ機能、法的保護など政策の統合的なデザインが必要である。そのためには、行政機関に存在する機能や資源配分の縦割り構造では対応できない。機能の再グループ化や資源配分のメカニズムの変更が必要となって来る。

第二に、快適な社会を作るには、様々な障害が存在する。これを乗り越えるために、医療(例えば、遠隔診断が可能なウエラブル救急医療システム、在宅検査のためのナノカプセル)、交通(例えば、運転や乗降がしやすい低速超小型車、オンデマンドバス)、映像工学やモバイル技術を利用した機器(例えば、臭覚・触覚ディスプレー、見たり聞いたりしたことをコンピューターがそのまま記録するライフログ)、ロボット工学(人間のパートナーとなり家事・介護を助けるロボット)などの先端科学を積極的に導入する必要がある。

東京大学では、柏キャンパス周辺等において、先端技術を活用した街づくりの提案を行うための実験を行っており、その成果を活用しつつ、新コミュニティのモデルを提案してゆく。

(5)長期的な視点を意識したインフラ整備

老齢者人口は、長期的にはピークアウトする時代が到来することが見込まれる。長期間利用する施設や人材に関しては、それに備えて柔軟性を確保しておくことが必要である。

<図8>東京大学政策ビジョン研究センター作成

5.終わりに−今後の政策研究の展開に向けて

政策ビジョン研究センターでは、センターがハブとなって医学、工学、法律学、経済学、公共政策、情報工学などの分野の知を統合して研究ユニットを編成し、研究を進めている。

本ペーパーに関しては、「医療とIT」、「再生医療」の研究ユニットを既に設置している。また、「ジェロントロジー総括寄付講座」との合同による検討も開始している。

さらに、高齢化・医療分野以外にも関連する横串のテーマとして、「技術ガバナンス」、「イノベーション・システム」についても、研究ユニットの設置等を行い検討を進めている。

本ペーパーは、我々の今後の研究テーマの課題と方向性を示したものである。今後、各ユニット等における研究成果を取り入れて、具体化や修正を行い、社会に対して提言していく予定である。

<図9>東京大学政策ビジョン研究センター作成



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