公共政策に行動科学の知見を使え!ナッジ誕生の地で大統領令が公布

東京大学 政策ビジョン研究センター/公共政策大学院 特任教授
岸本 充生

2015/11/5

photo by Sarah Fagg

9月15日、オバマ大統領が「行動科学の洞察をアメリカ国民に役に立つように利用する」と題する大統領令を公布した。このような行動科学の視点を公共政策に組み込もうというアイデアはもともと2003年に経済学者のセイラーと法学者のサンスティーンによって書かれた論文「リバタリアン・パターナリズム」に遡る。法規制による強制でもなく、経済的インセンティブによる誘導でもなく、選択の自由を維持したまま、人間の持つ心理的バイアスをうまく利用することで、人々の行動を「良い方向へ」変容させるというアプローチである。リバタリアン(=自由主義)とパターナリズム(=家父長主義)という一見矛盾する態度を結びつけるというアイデアは、民主党と共和党の対立により合意形成が行き詰っていたアメリカ議会の膠着を打破しようとする意図もあったと考えられる。この考え方は2008年には一般向けの書籍「ナッジ(Nudge)」(和訳は翌年「実践行動経済学」 と題して出版された)に結実する。ナッジとは英語で「肘でつつく」という意味であり、この日常語を「行動経済学」や「リバタリアン・パターナリズム」といった固い学術用語の代わりに用いたことも現在のナッジ・ブームを引き起こすことに成功した一因だろう。

このようにアメリカで生まれたナッジは先にイギリスで制度化された。2010年にキャメロン首相(当時は保守党党首)が選挙戦において、選挙関係者に「ナッジ」を読むように要請した。そして当選後には内閣府に通称「ナッジユニット」(正式名称はBehavioural Insights Team)を創設した。当初は2012年夏までの期限付きの組織であったが、様々な社会実験1を成功させたことから、1度延長され、さらに2014年には政府から独立し、世界各国や国際機関を顧客とするグローバルなコンサルティング会社に衣替えした。そして、2015年9月、満を持して、オバマ大統領は大統領令を公布し、アメリカでもナッジの社会実装が宣言されたのである。大統領令の第1セクションでは、省庁に対して、行動科学の洞察が利用可能な政策・プログラム・業務を探し、それらに適用するための戦略を策定し、行動科学の専門家を採用するとともに研究コミュニティとの連携を強化することを奨励している。次に、具体的な方策として、手続きを簡素化する、情報提供の仕方を変える、選択肢提示の仕方を変える、等が挙げられている。さらに、別の大統領令によって、現在進行中である既存規制の事後審査とリンクさせる、すなわち既存規制を見直す際に、ナッジで置き換えることが可能かどうかチェックせよと指示している。第2セクションではこのために1年ほど前に設立された「社会及び行動科学チーム(SBST, Social and Behavioral Science Team)」に関する内容が書かれている。ホワイトハウスの中の国家科学技術会議(NSTC, National Science and Technology Council)のもとに設けられたSBSTは、ナッジの利用に関して省庁にアドバイスを行う役割が期待されており、2019年まで毎年、省庁の取り組みをまとめた年間報告書を発行すること、そして10月末までにガイダンスを公表することが義務付けられている。イギリスとアメリカで始まったナッジの社会実装は、今後、欧米の法規制のあり方にも徐々に大きな影響を与えていくと予想される。

安全・環境・健康分野でも、ナッジに対する期待は大きい。従来型の公共政策、すなわち法規制による強制(コマンド&コントロール)や経済的インセンティブによる誘導で達成できるリスク削減が限界に近付いてきているからである。現在、リスク削減対策のフロンティアは、「市場の失敗」を理由とした公的な介入を正当化しづらい、つまり個人や企業の行動/営業の自由を制限せざるを得ない段階にきている。例えば、安全分野では建築安全や火災安全の分野が挙げられる。建築基準法の1981年改正以前に建てられた住宅の多くには耐震補強が必要であるが、住宅という私有財産に対して耐震補強を強制することは困難であるため、進捗率が低いままである。毎年1000人以上が亡くなっている住宅火災への対策として、寝室などへの火災報知器の設置が義務付けられたが、設置率は8割で頭打ちとなっている。これは「義務付け」といっても罰則規定がないからであるが、ここでこれ以上私有財産への介入ができないという限界に直面している。環境分野ではいくつかの明確な「悪玉」化学物質が存在した時代から、1つ1つの影響は大きくない多数の化学物質へ同時に曝露する時代に移った。こうした場合の複合影響についてはまだよく分かっていないため、規制を導入することを正当化するにはエビデンスが足りない。地球温暖化対策として重要な省エネについても、個人のライフスタイルに介入せざるを得ないので規制しづらい。健康分野では、特に先進国では誰の目にも明らかな外的なリスク要因は減り、生活習慣病が最大の疾病負担となっている。生活習慣病のリスク因子はライフスタイルそのものであるが、個々人のライフスタイルを規制することは難しい。野菜や果物の摂取量、運動時間、睡眠時間などは個人の選択の自由の範疇であり、規制による強制にはなじまない。

こうした背景に加えてもう1つ、ナッジの可能性を確信させてくれる要因がある。それはデータサイエンスの進展である。どのようなナッジが有効であるかについては個人差が大きい可能性が高い。そのため、セグメント別のきめ細かな対応が必要になり、それは近年スマホの利用などを通して集まりつつあるライフスタイルに関連する膨大な個人情報と、それらに基づく様々な統計解析から得られる各種エビデンスによって可能になる。今後はデータサイエンスと行動科学(ナッジ)を結びつけた取り組みが活発化するだろう。


脚注

  1. 例えば、社会実験によって最も効果的なメッセージを調査したうえで依頼することで臓器提供カードの所持者を年間10万人増やしたり、隣人の多くがすでに支払っていることを伝える新しいリマインダーレターを導入することで所得税の滞納分を年間3000万ポンド(5%)回収したり、という成果を挙げた。

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