智の巨人達はアメリカ資本主義をどう見ていたか
09/09/17
今回は、アメリカ人以外の経済社会学者がアメリカ資本主義の現状・将来をどう見ていたのかを振り返ってみることにしたい。
アダム・スミスが生きた時代(1723−1790)は、アメリカ植民地が独立戦争を起こし、最終的に独立を勝ち取った時代であった。スミスは『国富論』において、独立戦争への2つの対応策を示している。1つは、本国の植民地への課税権は維持するが、その代わりに植民地の本国議会への代表権を認めるという条件で、植民地と和平を結ぶというものである。
しかし、これには大きな問題があった。スミスは、アメリカ植民地が、広大な土地と豊富な天然資源を背景に急速な経済発展をとげ、将来「恐るべき帝国」(formidable empire)になると予見していた。そして1世紀もたてば、アメリカの納税額がイギリスの納税額を上回るようになり、したがってアメリカ代表の議員がイギリス議会の主導権を握ることになる。そうすれば、いずれ帝国の首都もアメリカの政治中心地に移され、大英帝国は実質的にアメリカ帝国となり、イギリスはアメリカ帝国の1属州となる覚悟が必要だとした。そこでスミスは第2の選択肢であるアメリカ殖民地分離案が、大多数のイギリス国民のためにも望ましい選択だと主張したのである1 。
スミスの予想どおり、その後アメリカ経済は急速な発展をとげる。その姿を目の当たりにしたのが、マックス・ウエーバー(1864−1920)であった。彼は1904年にアメリカを旅している。当時ニューヨーク・シカゴは急速に大都市化していた。彼はマンハッタン商業区の21階建てのホテルに違和感を覚え、ブルックリン橋上から観た交通ラッシュ、完全に機械化され驚くべき作業密度で働いているシカゴの大家畜処理場に驚嘆した。そして、事件・犯罪が充満するシカゴを「まるで皮膚をはがれて、その内臓の動きが外から見える1人の人間のようです」と評し、妻に対しては「ごらん、近代的世界とはこんなもんだよ」と語ったのである2 。
ウエーバーの代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、アメリカ資本主義の行方を次のように記している。彼は、「営利追求の最高の発達を示している」当時のアメリカでは、すでに営利追求行為に宗教的・倫理的意味が失われていることを自覚していた。そのうえで、アメリカの将来の可能性について彼は、①新しい預言者の出現、②古い観念や理想の力強い復興、を挙げるとともに、もしそのいずれでもないのならば、③ある種の異常な尊大さをもって飾られた機械の化石化が起こる、とする。そして「文化発展の最後に現れる『末人』(レツツテ・メンシェン)3 」は「精神のない専門人、心情のない享楽人」であり、「この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」としたのである4。ウエーバーはアメリカ資本主義の将来に強い懸念を有していた。
1929年、アメリカに始まった恐慌は世界中に広がった。この時代を生きたケインズ(1883−1946)は、その著『一般理論』において、投機が株式市場に不安定性をもたらすことを強調している。特にニューヨークでは投機の影響力は絶大であるとし、アメリカの投資家は「他人を出し抜く」こと、群集の裏をかき、粗悪な目減りした半クラウン貨を他の連中につかませることを目的にしていると指摘する。そして、「投機家は企業活動の堅実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、あるいは無害かもしれない。しかし企業活動が投機の渦巻きに翻弄される泡沫になってしまうと、事は重大な局面を迎える。一国の資本の発展がカジノでの賭け事の副産物となってしまったら、なにもかも始末に終えなくなってしまうだろう」と警告しているのである。
ケインズと同時代を生き、後半生をアメリカで過ごしたシュンペーター(1883−1950)は、『資本主義・社会主義・民主主義』において「資本主義は生き延びうるか」という問いを立てた。彼の答えは「否」である。その理由の1つは、すでにアメリカでは一般的であった「所有と経営の分離」であった。彼によれば、有給重役・支配人は被用者の態度を取りがちであり、ほとんど自己の利益と株主の利益を同一視することをしない。他方、大株主は、たとえ会社と自分との関係を永続的なものと考え、金融理論上の株主と同じようにふるまったとしても、なお企業オーナーの機能や心構えには及ばない、とされたのである。
こうして、かつての企業オーナーが有していた「『自分の』工場及びその支配のために、経済的、肉体的、あるいは政治的に戦い、必要とあればそれを枕に討ち死にしようとするほどの意志」は失われ、資本主義は衰亡していくとシュンペーターは予言した。
スミスはアメリカ資本主義の「恐るべき帝国化」を予見したが、それと同時に『道徳感情論』では市場参加者が「財産への道」のみならず「徳への道」を進む必要性を説いた。ウエーバーはアメリカ経済の発展の先にあるのは、「自惚れた末人たちの資本主義」であると予感した。ケインズはウオール街の投機的体質に懸念を抱き、「カジノ資本主義」がもたらす危険を説いた。シュンペーターは「所有と経営の分離」により、経営者が自分の企業に対する強い倫理的責任感・企業家精神を喪失するという形で資本主義の衰亡を予言した。今回、アメリカで発生した金融資本主義の破綻は、彼らの懸念・予感が正に重層的に実現化した結果といえよう。とすれば、この問題は単なる政策的対症療法では再発を防ぐことはできず、市場参加者とりわけ経営者の失われた倫理感をどう取り戻していくかが問われているのではなかろうか。
- 参考コラム: 中国経済と『道徳感情論』
(政策ビジョン研究センター客員研究員 田中 修 09/06/04)
1: 堂目卓夫『アダム・スミス』(中公新書 2008年)
2: 安藤英治『マックス・ウエーバー』(講談社学術文庫 2003年)
3: これはニーチェの代表作『ツァラトゥストラ』からの引用である。
4: 山之内靖『マックス・ヴエーバー入門』(岩波新書 1997年)は、この表現をニーチェと共通する近代社会の歴史的性格に対する根源的な批判と解釈している。