開催報告:第4回 医療イノベーションワークショップ
医療とイノベーション−臨床現場でのイノベーションの実現に向けて
photos: Ryoma. K
前回に引き続き今回のワークショップでは、医療分野におけるイノベーションを実現するためのインセンティヴについて検討した。今回のワークショップで着目したのは、主に医師や医療機関にとってのインセンティヴである。メーカー等の主に臨床現場に製品や医療技術を届ける側と、臨床現場側(医師や医療機関)との間でインセンティヴに違いがあるのかどうかについて明らかにするのが、今回のワークショップの目的であった。
今回のワークショップでは、3つの事例を取り上げている。最近目覚ましい発展を遂げつつある心室補助人工心臓(Ventricular Assist Device)、高度医療の代名詞ともいえる骨髄移植(Bone Marrow Transplant)、そして日本でも現在話題になっている電子カルテ(Electronic Health Record) について、米国ワシントン大学の3名の医師から報告をしていただき、日本側からは心室補助人工心臓についての現状と課題について五條理志教授からご講演いただいた。
開会挨拶
パネリスト
Fatima Karaki
M.D., Resident (PGY-3), Washington University School of Medicine/Barnes Jewish Hospital
プレゼンデータ
Rohan Ahluwalia
M.D., Resident (PGY-3), Washington University School of Medicine/Barnes Jewish Hospital
プレゼンデータ
加藤良太朗
M.D. J.D., Instructor, Washington University School of Medicine,/VA St. Louis Health Care System
プレゼンデータ
五條理志
京都府立医科大学大学院医学研究科人工臓器・心臓移植・再生医学 教授
プレゼンデータ
大西昭郎
公共政策大学院 特任教授
佐藤智晶(モデレーター)
東京大学政策ビジョン研究センター 特任助教 概要説明
医師にとってのインセンティヴ
医師のインセンティヴは、患者をより早く、より非侵襲的に回復させたいというところからスタートしている。患者を回復させるためのよりよい「道具」を手にし、それを臨床現場で使えることが、医師にとっての医療イノベーションを推進する原動力の素である。 よく知られた逸話としては、iPS細胞で2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授・京都大学教授の例を挙げることができる。山中教授が臨床から基礎研究にフィールドを移したのは、関節が変形した重症のリウマチ患者を助けたいとの一心からだったという。山中教授のインセンティヴの1つとして、患者を回復させたいという思いがあったことは明らかであろう。
心室補助人工心臓、骨髄移植、そして電子カルテシステムの発展には、上記のようなインセンティヴが当然働いているが、それだけではイノベーションは実現しない。医師と取り巻く関係者にとって、イノベーションを実現しやすい環境がぜひとも必要である。
医師にとってイノベーションを実現しやすい環境
ある疾病の診断や治療法は、必ずしも手技だけの発展で生み出されるわけではなく、医薬品、医療機器、再生医療関連製品などのいわゆる「モノ」と組み合わさって可能になる。そうだとすれば、特許保護等によって製品の開発が促され、それが臨床現場に届けられ、患者と開発者が当該製品から利益を享受でき、その利益の一部を基にしてさらなる製品の研究開発が進められるようなサイクルがないかぎり、医師は患者の回復のための武器を手にすることはできない。そうでなければ、医師以外にこのサイクルを回そうとする人が現れないからである。このように一連のサイクルをみてみると、実は医師とメーカー等のインセンティヴが交錯する部分があることに気づく。
すなわち、診断や治療法に「モノ」が関係する場合には、当該製品が安全かつ有効(医療機器であれば、主に安全で意図された性能が発揮されるかどうか)であるかどうかが事前に一定程度明らかになっている必要があり、しかもその「モノ」が販売に値するような(利益を上げる)製品でない限り、メーカーとしては原則として開発に参入できない、ということである。医師としては、臨床研究、医師主導治験、企業主導治験、通常の医療という形式の如何にかかわらず、よりよい道具を手にして患者に提供したいと考えるのが普通であろう。しかしながら、企業としては、特許保護等の知的財産保護が保障されなければ、リスクを引き受けてわざわざ場合によっては数年間もかかるような研究開発に参加することはできない。また、開発に要する期間がある程度予測でき、販売による投資回収の可能性が期待できることを確認できなければ、企業の参加は決して見込めないのである。このように、企業が研究開発に参加できるような環境を用意できないと、医師のインセンティヴが満たされることは極めて難しい。
心室補助人工心臓の事例から分かること
アメリカ合衆国には、心不全に苦しむ患者が580万人(全米人口の2パーセントにあたる数)いて、毎年新たに55万人ずつのペースで心不全と診断される患者がいる。世界には心不全の患者が2300万人いると推計されている。心不全の患者は、長期にわたる治療を必要とすることから、クオリティ・オブ・ライフの低下や入退院を繰り返す。年間の入院数は100万回、費用にすると280億ドルが投じられているという。また、心不全の最終ステージでは心臓移植が行われるものの、移植臓器の不足という問題がある(以上、Fatima Karaki, Left Ventricular Assist Devices (LVADs): Overview and Future Directions, Dec. 14, 2012, at 6)。
重症心不全に対応する医療技術は、1950年代から次々と生み出されてきた。心肺バイパス法(1950年代)、大動脈内バルーンポンプ(1960年代)、南アフリカで世界初の心臓移植(1967年)、膜型人工肺(1970年代)、脈動流型補助人工心臓(1990年代)、定常流型補助人工心臓(2000年代)、磁気浮上型補助人工心臓(ヨーロッパでは2007年、米国では2012年11月)、臓器移植までの橋渡しとしての補助人工心臓の販売認可(FDAでは2003年)、臓器移植までの橋渡しではない、いわゆる「destination therapy」としての補助人工心臓の販売認可(FDAでは2010年)などである。
定常流型補助人工心臓の1つである「HeartMate II」という製品は、2008年から4000台が世界で(内訳として、米国では毎年1700台、欧州では430台が使用されている)(Fatima Karaki, Left Ventricular Assist Devices (LVADs): Overview and Future Directions, Dec. 14, 2012, at 11; O.H. Frazier, Current Status of Cardiac Transplantation and Left Ventricular Assist Devices, Texas Heart Institute Journal 2010; 37(3):319-321)。2005年以降で計算すると、7000人の手術で使われている。出荷台数でみると、すでにトータル1万台を超えていて、2011年でだけで3149台が出荷されている(Thoratec, Learning About The HeartMate II LVAD, 2011; Leerink Swann, Advancing a New Era of Mechanical Circulatory Support, Global Healthcare Conference February 16, 2012)。日本での補助人工心臓の使用状況については、第18回日本臨床補助人工心臓研究会のレジストリに詳しい(available at http://www.jacvas.com/registry.html)。1980年から2010年9月までの全症例数は1221件であり、米国の1年間の症例数に及ばない。
PubMedに掲載されている医学論文の数で比較してみると、「HeartMate II」は他の製品の1.5倍から10倍の数の論文がある(2012年12月3日時点)。 五條理志教授のプレゼンテーションでは、下記のような形で日米の差が示された。
- 日本には心疾患の患者数予測データが乏しく、死亡率データしかない。このことは、開発サイドにとって大きな痛手で、予測に耐えうるデータベースが重要。
- 手術数がそもそも少なくてランダム化臨床試験が困難。重症心不全については有用な知見を臨床研究で示すことが難しい。
- 定常流型補助人工心臓(第二世代)がより手術で使われるのは、医療技術と臨床現場サイドのニーズがマッチしているから。
- 同じ機器が提供されても、医師の技量で治療の成果にも影響がでることから、新しい医療機器のトレーニング費用を誰が負担してゆくかという問題がある。トレーニングの部分をビジネスにするアメリカと、単なる企業の負担とする日本の違いは大きい。
- 医療機器販売においてはプロモーションが大事ではないか(優れたアニメーションで分かりやすく医療従事者や医療機関に説明すべきでは)
- アジア等への海外展開で販売ボリュームを拡大しないと、研究開発費の回収が期待できないため、企業の機器開発が促進されないのではないか。
このように、医師にとってイノベーションを実現しやすい環境というのは、実はメーカーサイドにとっては医師や医療機関と協同で新しい医療関連製品の開発をし易い環境であり、しかもビジネスを行いやすい環境と言い換えることができる。そのような環境が、患者のアンメットメディカルニーズの解消に繋がってくることは言うまでもない。
骨髄移植
骨髄移植の発展の歴史は古く、1939年からスタートしている(以下、Rohan Ahluwalia, Introduction to Bone Marrow Transplant, Dec. 14, 2012を参照)。最初のヒト骨髄移植は、1939年に行われたという記録が残っているものの、5日後に患者は死亡した。1970年代以降、移植片対宿主病に対する治療薬、よりよい感染症治療、患者とドナーとの適合性確認の改善、骨髄移植ドナー登録の開始などにより、骨髄移植は急速に発展した。
2008年までに、全世界ですでに70万人の患者が骨髄移植を受けており、12万5000人以上の患者が5年以上生存している。年間では世界で毎年約5万例の骨髄移植が行われている。
日本でも、骨髄バンクが1991年、臍帯血バンクネットワークが1999年にスタートした。非血縁者間移植実施数は累計計1万5150例、年間で1300例を超えており、ドナー登録の数も42万人に上っている(日本骨髄バンク「骨髄バンク事業の現状」(平成 25 年1月末現在)(速報値))。
費用は一概にいえないものの、自家骨髄移植で5万ドルから10万ドル、他家骨髄移植で15万から20万ドルとされる。 将来的には、胚幹細胞を造血幹細胞として利用する可能性や、より網羅的な骨髄バンクの構築による組織適合率の向上などが課題となっていて、より安全で効果的ながん治療法と併せて研究されている。 補助人工心臓では患者数予測のデータベースが問題になっていたが、骨髄移植ではドナーバンクが非常に重要な役割を果たす。ドナーや患者のデータを効果的に活用できれば、よりよい治療法の創出に繋がる余地がある。
医療ITを介したイノベーションの推進
アメリカの病院のなかでも全米でネットワークが繋がっているのは、連邦の退役軍人病院である。病院は全部で153病院、各州に少なくとも1カ所はあり、病院の他にナーシングホーム、ベテランセンターといって精神疾患を扱って、カウンセリングするような施設も全部入れると、全部で1400以上の施設がある。そのすべてで、言い換えれば、退役軍人病院では、外来も入院された患者の情報も全部共有されている。どういうことかといえば、患者がサンディエゴの退役軍人病院で最初に受診して、あとボストンに引っ越しても、そのサンディエゴの情報は、ボストンやその他の病院で全部見ることができる。
加藤良太朗医師によれば、患者にとっても医師にとっても大きなメリットがあるという。たとえば、ミスの防止である。医療のIT化というのは電子カルテだけではなく、オーダーシステム、投薬の仕方など全部電子化されるので、格段とミスが減る。退役軍人病院以外だと、おおよそ8%くらいの確率で投薬ミス(患者さんを取り違えるとか、薬を取り違えるといったこと)があるのに対し、退役軍人病院ではその確率が0.003%、ほぼ投薬ミスはない。このようなミスが起こりにくいのは、患者にとっては非常に有益である。
医療者にとってのベネフィットもある。たとえば、病気であまり話せない患者が来た場合でも、電子カルテを見れば全部分かる。医者にとって、何かの制約で最高のケアを提供できないことは耐えがたいはずだが、退役軍人病院のシステムでは少なくとも情報は全部あり、あとは医療者がその情報をどう使って医療を提供するかだけだという。
加藤医師は、医療ITシステムは全体のデザインが極めて大事であるという。システムが単にあればよいというのではなく、医療情報をどのように使い、どうやって医療を提供することを目指すのか、そこが鍵だというのである。退役軍人病院のシステムでは、データウェアハウスといって、患者データを全部検索可能にしようという動きがある。退役軍人病院は毎年延べ5億人の患者を診療している。その全部のデータをGoogleのように検索できるようになれば、エビデンスもなく、経験もしたことないような疾患患者が来た場合でも、対応可能になるだろう。リアルタイムで似ている疾患を検索でき、同じような疾患で同じように診断が付かなかった患者をすべてリストアップして、何か効いた薬はないか、共通点があるかなどのプロセスを経て医療を提供できるようになる。
また、データウェアハウスは、エビデンスがあってもそれをちゃんと実行しないというケースにも、実は応用可能性がある。リアルタイム検索で心筋梗塞の患者でアスピリン飲んでいる人、飲んでいない人をリストアップできれば、飲んでいない人に全部一括でオーダーすることも可能となる。 今後、データウェアハウスには遺伝子情報についても適切なセキュリティのもとで組み込むことが想定されているという。個別化医療のためには決して欠かせない情報の登録可能性までも想定して、退役軍人病院では医療ITシステムがデザインされているのである。
医療ITシステムは、診断や治療法そのものではないものの、医師にとってイノベーションを実現しやすい環境の最たるもの、根幹といっても過言ではない。重症心疾患の治療や骨髄移植の発展にも医療情報は必要で、それなしに関連医薬品や医療機器、その他の医療関連製品や技術を生み出すことはできない。また、医師としてはより安全で有効な医療を提供するために、患者としてはよりよい医療を受けるために情報が強力な道具になる。加藤医師は、東京から退役軍人病院のデータにリアルタイムにアクセスし、デモ(実際の患者情報ではないが、仮想患者の諸情報)を我々に示しながら、医療ITシステムがイノベーションを実現するために有用な道具であることを説明した。
まとめ
臨床現場でのイノベーションを促すためのインセンティヴは、実はメーカーサイドのインセンティヴと表裏一体である。医師にとっては、患者の回復に寄与したいという思いを実現しやすい環境こそ、イノベーションの何よりも大きなインセンティヴと言える。そして、実はそのような環境というのは、実はメーカーサイドにとっては医師や医療機関と協同で新しい医療関連製品の開発をし易い環境であり、しかもビジネスを行いやすい環境と言い換えることができる。そのような環境が、患者のアンメットメディカルニーズの解消を可能にするのである。
メーカー側、医療機器を臨床現場に届ける側にとっては、新しい製品や医療技術を臨床現場に届けるためのパスウェイ、イノベーションの評価、そしてリソース面の3つのインセンティヴが重要である。
他方、医師にとっては、臨床研究や臨床試験に従事しやすい環境が大切であり、それがメーカー側へのインセンティヴと相まってよりよい診断や治療法の開発に直結する。そうしてはじめて、患者としても恩恵を被ることができる。また、イノベーションを起こそうと努力し、漸進的にでもイノベーションを実現した医療従事者が報われる環境も必要である。医療ITシステムは、デザインや使い方次第でイノベーションの実現を大いに助けるだろう。(佐藤 智晶 特任講師)
※読売新聞に「医療革新−成長のエンジン」と題する特集が2月21日から28日まで6回特集されました。今回のワークショップの内容にも関連しますので、ご関心のある方は併せてご参照下さい。