備忘録その2-1
リーマン・ショック前後の為替政策
(はじめに)

東京大学政策ビジョン研究センター教授
篠原尚之

2017/6/13

財務官退官後、2010年から2015年2月まで国際通貨基金(IMF)副専務理事を務めていた篠原尚之教授が、在任時を振り返って語る「備忘録」シリーズ。第二回では、2007年から2009年というリーマン・ショックを挟むこの時期を、主に為替政策の観点から振り返ります。

概観(はじめに)

篠原尚之教授 経歴

私が財務官に就任したのは、2007年7月初めであり、当時の円・ドル相場は120円前後であった。その当時、米国経済では、2003年から長期にわたる穏やかな景気拡大(「グレート・モデレーション」と呼ばれた)が続いていた。米国連邦準備銀行(FRB)は、2004年半ばから徐々に政策金利を引き上げ、2006年半ばには5.25%となっていた。高騰を続けていた米国住宅価格(ケース・シラー指数)は、2006年6月には最高値を付け、その後緩やかに落ち始めていた。米国住宅市場がバブル気味であることは多くの人が気づいていたが、価格高騰による当然の調整が起きているとして、市場にはさほどの警戒感は感じられなかった。

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そうした中、2007年8月9日、いわゆるパリバ・ショック(BNPパリバが傘下の3ファンドの解約凍結を発表)が起きた。米国経済の超安定化(グレート・モデレーション)時代が終わりを告げ、サブプライム・ローン問題が表面化し、世界的な金融不安の発生へとつながっていく予兆となる事件であった。

この頃から、為替市場では、ドル安(円高、ユーロ高)が進んでいく。8月には、円・ドル相場は、110円近くまで上昇した。FRBの金融緩和(政策金利引き下げ)が始まる。しかし、米国株価(NYダウ)は10月19日に史上最高値を付け、原油価格等の商品価格は続くなど、サブプライム問題の深刻さを図りかねているようであった。

2008年3月16日、ベア・スターンズ・ショックが起きる。米国第5位の伝統ある投資銀行であったベア・スターンズは、住宅ローンを束にしたMBS(証券化商品)の取り扱いに極めて積極的であった金融機関だったのだが、これが事実上破たん(JPモルガンによる買収、NY連銀による流動性供給等)した。円・ドル相場は、一気に100円を切り、一時96円まで急騰する。一方、ユーロは、対米ドルで市場最高値を更新していた。

その後、市場は一旦落ち着きを取り戻す。ベア・スターンズが政府主導で事実上救済されたことへの安心感が背景の一部にはあったと思われる。しかし、住宅価格の下落は続き、サブプライム・ローンの延滞率は上昇を続けていた。MBSを多く保有していたのは、米国の金融機関だけでなく、欧州金融機関についても様々な懸念が出始めていた。史上最高値を更新し続けていたユーロは、2008年夏になると下落に転じる。ドル安(円高、ユーロ高)が崩れ始め、円高(ドル安、ユーロ安)の構図に変わっていく。同時に、米国の住宅ローンで大きな役割を占める準政府機関のGSE(ファニーメイ、フレディマック)や、MBS関連の巨額の保証が存在する保険会社AIGへの懸念も強まり、市場は荒れていく。

こうした中で、2008年9月15日、リーマン・ショックが起きる。9月に入って以降、GSE救済策の公表や、FRBによるAIG支援策が発表されるなど、米国当局による懸命の努力がなされていたが、名門投資銀行であったリーマン・ブラザーズは、ベア・スターンズの際と異なり、バランスシートの棄損が激しかったため、NY連銀の支援を受けることかなわず、買収企業も現れず、倒産することとなった。リーマン危機が噂された際、ほとんどの人は、我々や米国政府内部の人を含め、ベア・スターンズの場合のように、政府が何とか救済策を考えるであろうと想定していた。Too Big to Failの考え方である。しかし、様々な回顧録等にその経緯が残されているように、リーマン・ブラザーズは結果的に倒産することとなった。その直後から、金融機関同士の疑心暗鬼から金融市場における流動性は凍りつき、インターバンク市場はまったく機能しなくなるという未曽有の事態となった。

リーマン・ブラザーズがチャプター11を申請する直前には、円・ドル相場は108円まで戻っていた。しかし、リーマン・ショック後には、米欧当局による様々な施策が打ち出されるにも関わらず、株式市場は下落を続け、リスク回避的な円高が徐々に進んでいく。10月24日には、東京市場朝方98円程度だった相場が、夕方には一気に90円87銭まで急騰する事態となった。週明けの10月27日、G7財務大臣・中央銀行総裁は緊急声明を出した。「最近の円の過度な変動を懸念する」という「円高懸念」を特記した異例の声明であった。ドル・円は100円近くまで戻し、一息ついたのだが、更に暫く円高圧力が続くであろうことは明らかであった。

財務官任期2年間の中で、円・ドル相場が最も円高に振れたのは、2008年12月、米国自動車メーカー(ビッグ3)破たん懸念から、一時的に87円前半まで円高が進んだ時である。

この時期を境に、市場の関心は、金融不安の発生や市場の機能不全という問題から、米国・世界経済の実態経済の悪化やデフレ懸念に徐々に移っていく。金融不安への対応として大量の流動性を供給するため、金融政策の緩和はすでに幅広く進んでいたが、2008年第四四半期のGDP成長率は日米欧軒並み大幅なマイナスであり、拡張的な財政政策についての協調も進んでいく。リーマン・ショックを機に誕生したG20首脳会合プロセスは、2009年4月の第二回会合(ロンドン)で、金融機関や金融市場の健全性回復のための方策とともに、積極的な財政政策の活用という点でも、政策協調の成果を合意することとなった。こうした努力もあり、リスク回避の円高という市場の雰囲気は弱まり、私が財務官を退任した2009年7月には、円ドル相場は96円前後であった。

このように、2007年夏からの2年間で、為替相場に大きな変動をもたらした大きな節目としては、2007年8月のパリバ・ショック、2008年3月のベア・スターンズ・ショック、2008年9月のリーマン・ショックとその後の金融不安、2008年12月のBIG3救済策発表が挙げられよう。この時期は、長い目でみると、120円超の円安の時代から、70円台の超円高に至る過渡期であるとも言えよう。財務官として、為替市場への介入を実際に行うことはなかったが、相場の節目それぞれにおいて、G7各国のカウンターパートと密接に連絡を取り合った。年何回か開かれるG7財務大臣中央銀行総裁の声明には多くの時間を割いた。円の急騰時にはG7特別声明を用意した。また、各国との協議の中で、為替介入の可否について突っ込んだ議論がなされ、為替介入寸前まで行ったこともあった。

言うまでもないが、為替相場は、自国通貨と他国通貨の相対価格である。円が安く(高く)なれば、ドルやユーロは高く(安く)なることを意味する。この点は、株価や地価とは異なる点である。円の相場は、日本の経済・政治事情の変化の影響を受けることもあれば、相手国の状況変化によっても影響を受ける。円相場を意図的に安くし輸出増を通じ国内経済の回復を狙う(beggar-thy-neighbor)と、貿易相手国は強く影響を受けるため、これに強く反発するし、場合により相手国もその通貨の減価を試みる(competitive devaluation)。第一次大戦後の世界恐慌の教訓の一つは、保護貿易主義への反対であり、競争的通貨安競争の回避であった。

こうした為替相場の性格から、主要通貨国間で頻繁にコミュニケーションを取り合うことは極めて重要である。実際、私の在任中、日本円(財務省・日銀)、米ドル(財務省・FRB)、ユーロ(ECB・ユーログループ議長国)の三者間では緊密な連絡が日常的になされていた。大臣レベル間の会話が頻繁に行われたほか、大臣代理(Deputy)レベルでは常時電話やメールで連絡を取り合った。なお、為替介入の権限を持っているのは、日米が財務省、ユーロがECBである。

こうした三者間の議論は対立することが多いのだが、そうした議論をベースにして、G7各国に話を広げていく(G7での共同歩調を演出する)いうのがよくあるスタイルであった。あくまでも相対価格である為替相場の性格に鑑みると、単独での行動は効果が余りないことが多く、出来るだけ他の主要通貨国と共同のメッセージや行動をとることが大切であることは言うまでもない。その手段が、G7プロセスであった。

2008年に、日本はG7/G8プロセスの議長を務めた。いわゆる首脳会合は、G8(G7とロシア)で行われていた。2008年6月に、財務大臣会合が大阪で、首脳会合が洞爺湖で開かれた。G8は、ロシアが参加している一方、中央銀行総裁は参加していないプロセスであり、為替の問題を表立って扱うことはしなかった。

G20は、20か国財務大臣・中央銀行総裁会合として1999年から毎年開催されてきたが、リーマン・ショック直後の2008年11月に首脳会合が初めて開催され、それ以降、財務相・中銀総裁会合は首脳会合の準備会合としての役割を担うようになった。

2007年から2009年というリーマン・ショックを挟むこの時期の全貌を振り返ることは、私の能力には余る。様々な書物も出版されている。私としては、記憶をたどりながら、為替政策という視点を中心にして、こうした節目で私の周りで起きたことを整理しておきたい。

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篠原尚之教授 備忘録シリーズ