備忘録その2-4
リーマン・ショック前後の為替政策(リーマン・ショック前夜(GSE問題))

東京大学政策ビジョン研究センター教授
篠原尚之

2017/8/28

財務官退官後、2010年から2015年2月まで国際通貨基金(IMF)副専務理事を務めていた篠原尚之教授が、在任時を振り返って語る「備忘録」シリーズ。第二回では、2007年から2009年というリーマン・ショックを挟むこの時期を、主に為替政策の観点から振り返ります。

目次 [リーマン・ショック前後の為替政策]

1.はじめに

2.パリバ・ショックとサブプライム問題

3.ベア・スターンズ・ショック

4.リーマン・ショック前夜(GSE問題)

1.2008年夏の動き
2.GSE救済

5.リーマン・ショック時の出来事

6.リーマン・ショック後の円急騰〔略〕

2008年春のベア・スターンズ・ショックを乗り切り、市場は落ち着きを取り戻していた。サブプライム問題は一時的に表舞台から去り、石油価格の上昇等によるインフレ懸念が議論された。しかし、それも長くは続かない。7月頃になるとファニーメイ等のGSE問題が表面化し、事態は混とんとしてくる。2008年9月15日のリーマン・ブラザーズの破綻まで、あとわずかであった。

1.2008年夏の動き

篠原尚之教授 経歴

2008年5月末、日本国債のIR活動(Investor Relations)でニューヨークを訪れる機会を捉え、サブプライム問題への取り組みなどを肌で感じるため、ゴールドマン・サックス、メリル・リンチ、モルガン・スタンレー、リーマン・ブラザーズなどの投資銀行のCEO等と個別に面会をした。また、古くからの知人であるニューヨーク連銀のガイトナー総裁とも面談をした。3月のベア・スターンズ・ショック後、市場はある程度落ち着きを取り戻しており、一時1ドル95円台まで進んだ円相場は、この時期105円台まで戻っていた。多くの金融機関は評価損の計上を進めるとともに、増資への取り組みを発表し始めていた。

CEOの一人は、サブプライム問題の影響はさほど大きくないという自信を示し、当時の一次産品価格の上昇はまだ続くと嬉しそうに予測していた。価格がまだ上がるという情報を出してはcommodity fundを顧客に売り、同時に自らもでもそれを抱えることで利益を出すというマッチポンプ的な構造を垣間見た感じであった。私からは、一次産品価格の上昇は、世界経済全体としては好ましいものではなく、低所得者に特に打撃を与えることを述べたが、芳しい反応はなかったのを覚えている。

他のCEO達は、概ねサブプライム問題の大きな影響を受け止めつつ、自己資本の増強などを進めつつあり、バランスシート全体に問題が生じることはないとアピールしていた。皆眺めの良い豪華なオフィスに陣取っていたが、オフィスの雰囲気とは異なり、ゆったりとした空気は流れていなかった。ガイトナー総裁は、NY連銀の彼のオフィスで、いつもの早口で様々な状況説明をしてくれた。ベア・スターンズで一件落着にならないだろうことだけは明確に伝わってきた。

6月13-14日には、大阪(国際会議場)でG8財務大臣会合が開かれ、額賀大臣が議長を務めた。この会合は、翌月洞爺湖で開かれたG8サミット首脳会議に向けての準備会合であり、財務のほか、外務、貿易等各種の大臣会合が各地で開かれた。当時のサミットは、ロシアを含めた8か国の会合であり、財務大臣会合もロシアを含んだG8であった。また、G7と異なり各国中央銀行総裁は参加していなかった。従って、会合では、マクロ経済情勢、金融市場の問題も一通り議論されたが、主なテーマは、原油価格高騰にどう取り組むかという問題であった。会合では、途上国における価格補助金の削減、産油国の生産能力の拡大、市場データの透明性向上、商品先物市場の機能の検証、などが重要とされた。また、気候変動(ファンディング)やアフリカの開発問題も議論された。

(注)G8財務大臣会合開催のための事務方の作業は大変なものであった。栗原財務官室長以下、会場の設定やディナーのメニュー作りも含めた準備は膨大であったようだ。この間の苦労話は、当時の財務省広報誌「ファイナンス」に詳しく描写されている。

サブプライム問題等については、会合に合わせて行われた個別の二国間の財務大臣会合などを通じて、意見が交わされた。日米財務大臣会合では、特に、翌週の米中戦略対話の開催を前に、人民元の過小評価の問題が議論されたと記憶している。米国の立場は、IMFが四条協議(Article 4 Consultation)を通じて結果を出す(人民元が過小評価されているという明確な判断を示す)ことが重要であり、それがIMFの信頼性を維持することにもなるというものであった。当時は、どうやったら中国を動かせるかについて意見交換がなされた。

(注)当時、IMFの対中国4条協議(年一回)は、2006年7月に開催された後、人民元の評価をめぐるIMFと中国当局の合意が得られないため、開催できない状況にあった。公表が再開されたのは、私がIMF副専務理事となり、担当国の一つとして対中国4条協議に関する理事会の議長を初めて務めた2010年7月のことであった。

当時、原油や穀物を始めとする商品市況の高騰が顕著となる中で、世界的なインフレ懸念が強まっていた。各国の金融政策も、金融市場の混乱を受けた緩和的スタンスから、インフレ懸念に対応するどう対応するかという姿勢に移っていた。米バーナンキFRB議長は、6月3日の講演で、経済のダウンサイドリスクは和らいでいる一方、ドル安がインフレに与える悪影響について懸念を表明した。同じ時期、ポールソン財務長官やブッシュ大統領も「強いドルは米国の利益である」旨を再三発言した。ECBは、6月の政策決定会合では金利を据え置いたが、7月3日には政策金利0.25%の引き上げを行った。

(注)この頃、日本経済は、二つの外部要因(一次産品価格の上昇による交易条件の悪化と世界経済の減速に伴う輸出の減少)に苦しんでいた。6月26日には、政府は、原油等価格高騰対策を発表。8月29日には、原油・食料価格の高騰に対応するための総合対策(補正予算を含む)を発表した。

しかし、7月に入ると、米国サブプライム問題への懸念が一気に高まっていった。背景は、ファニーメイ、フレディーマックといったGSE(政府支援機関:Government Sponsored Enterprises)の経営悪化懸念からくる株価の暴落であった。両社の株価は、6月頃から下落基調にあったが、7月7日、リーマン・ブラザーズがそのレポートで、「GSE2社は計750億ドル規模の資金調達を迫られる可能性あり」としてことで、拍車がかかった。

7月14日、前週のGSE株の大暴落を受けて、米国政府はGSE支援の特別措置を発表した。財務省のGSEの対するクレジットラインの拡大、財務省に必要に応じ両社の株式を購入する法的権限を与える、GSEへの規制の枠組みの強化、FRBによる公定歩合貸出の認可などであった。発表当初は、必要な法案(住宅関連法案)の議会でのプロセスの不透明さから市場は不安定であったが、7月30日には法案が成立した。

7月から8月にかけては、こうした米国金融市場をめぐる不安定な動きにも関わらず、円相場は対ドルで105円から110円の間を推移しており、比較的安定的であった。ユーロが対円で市場最高値を付けた(169.97円)のは、7月23日である。主たる背景は、先ほど触れたように依然として残るインフレ懸念からくる欧米金融政策の方向性(日本との違い)と、米当局のドル安懸念発言であったと思われる。

なお、7月11日、米国の貯蓄金融機関であるIndyMacが破綻した。この銀行は、Alt-A住宅ローン(サブプライムローンの借り手よりは信用力が高いが、プライムローンの借り手よりは信用力が落ちる者を対象)に特化していたが、住宅市場の悪化を背景に取り付け騒ぎが発生し、閉鎖に至ったものである。IndyMac銀行の資産規模は320億ドルであり、Continental Illinois銀行の破綻(1984年:資産規模400億ドル)に次ぐ規模であった。米国では2007年後半から、小さな銀行の破綻が出るようになってきていたが、IndyMacの破綻は規模が桁違いであった。しかし、損失額は預金保険で充分補てん出来る規模であり、IndyMac銀行の破たん処理はFDICにより淡々と行われた。当時としては、米国住宅ローン市場の劣化を象徴する出来事であった。

7月31日と8月1日、G7Dのリトリートを箱根のホテルで開催した。役所の予算制約の中では、夕食会等で外国からの客をもてなすのは容易でなく、ロジの担当者は大いに苦労したようである。箱根では、ASEAN+3の代理会合を一度開いたことがあるが、その時と異なり、欧米の人は露天風呂にはやはり強い抵抗があった。リトリート会合の中身には言及しないが、「モノライン保険会社」(金融保証保険を専門に行い、自動車保険や火災保険等は扱わない保険会社;地方債や証券化商品への保証を営んでいた)やAIGの健全性(Credit Default Swapへの依存)に関する議論が交わされたものの、参加者間でもなかなか理解が及ばなかった記憶がある。印象に残っているのは、米国では保険会社は各州当局の監督下にあり、米財務省も詳細を的確に把握していなかった様子であったことである。もちろん、この点は宿題として、後日説明が試みられた。米国の金融監督機関の複雑な仕組みがそこにあった。

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2.GSE救済

ファニーメイ等GSE2社は、1938年、大恐慌後の対策として、銀行から不動産貸付債権を買い取り、銀行の不動産融資を促すことを目的として設立された政府系金融機関であった。1968年に民営化され、株式は上場されていた。1995年には、低所得者へのローンを含む不動産担保証券を購入する際に税制上の優遇を受けるようになり、そこから徐々にサブプライム市場に関わっていった。2008年には、両社で、直接的(住宅ローンの購入)または間接的(証券化商品の組成及び保証)な形で米国住宅ローン市場の約半分に関わっていた。GSEは、民間企業の形をとりながら、政府の関与があるという曖昧な性格を持っている一方、GSEの発行する債券はAgency債と呼ばれ、米国国債に次ぐ信用度の高い資産として、幅広く世界中の金融機関等の保有者にいきわたっており、多くの公的当局も外貨準備の運用の一部として保有していた。

7月のGSE支援の特別措置にも関わらず、政府による株式購入(公的資金注入)などの抜本策は実施されていなかった。米国政府の中では、GSEの自己資本を補う必要があれば、GSE自身が新株発行による資本増強をまず考えるべきとの考え方が依然強かった。税金を使った救済はやりたくない。しかし、株価下落の中でこうした民間ベースの資本調達は困難だろうとして悶々としていた様子であった。米国議会の中でも、GSEと政府との距離感をどうするか(政府支援機関という曖昧な法的性格の見直し・・最終的な形態は国有化か民営化か)については議論が割れていた。また、GSEが僅かな自己資本で巨額の住宅ローン等の資産を抱えていると同時に、両社が組成し保証する多額のMBS(住宅ローン担保証券)が存在する(極めてleverageが高いバランスシート)という基本的問題に変化はなかった。

当時発表された措置(住宅関連法)は、財務省に株式購入等の幅広いオプションを授権したものであったが、依然GSE問題への対処の仕方について財務省内でも方向性は定まっておらず、最終的な決着にはまだまだ時間がかかるとの印象であった。この点は、G7代理間のテレコンでも何回か議論されたが、米国サイドから明確な回答はなかった。米国財務省は、金融システムの安定確保、GSEを通じる住宅市場の強化、納税者負担の極小化という3つの点を同時に満たす最適解を探っていた。

GSE2社の経営状況に対する懸念は依然として続いた。ファニーメイの2008年Q2決算をみると、延滞率が1.3%程度(前年同期は0.6%台)、保有証券等の評価損は8.8億ドル(同0.9億ドル)、貸倒引当金が53億ドル(同5億ドル)であり、最終損益は▲23億ドル(同+19億ドル)であった。住宅ローン金利の上昇がみられる中で、GSE2社の経営改善と住宅市場の下支えをどのように両立していくのか、極めて先が見えにくい状況であった。

8月後半、米財務省からは、マーケットの状況について何回かアップデートがなされた。GSE2社の株価の下落が激しいことに加え、GSE債の保有者の地域別構成の変化についても連絡があった。具体的には、アジア勢のGSE債保有が減る傾向(40%から30%へ)がみられ、北米投資家の比率がその分高まっているというものであった。市場では、中国がGSE債の購入を減らしているとの噂が流れていた時期であり、それに沿ったものであると思われた。

9月7日(日)夜、米財務省マコーミック次官から自宅に電話がかかってきた。数時間後に、GSE救済策を発表するとして、その概要を連絡してきた。日本から、米国の救済策について強い支持をしてほしいという要請であり、これは直ちに了解した。同時に、日本が外貨準備を利用して、GSE保証のMBSを購入することを検討することは可能かという依頼があった。GSE救済策の柱の一つに、米財務省によるGSE保証MBSの購入プログラムがあり、日本がそれを側面からサポートしてくれないかとの趣旨であった。私からは、救済策の内容についての吟味がまず必要であること、GSEの債券(Agency)と異なり、MBSの購入は個別銘柄の購入となり技術的にも様々な問題があること(例えば、MBSの適正価格を見つけ出すのは容易でない)などを述べたうえで、検討はしてみると回答した。

この日発表されたGSE救済策の概要を記しておこう。大目的は、①金融市場の安定確保、②住宅金融の円滑化、③納税者の保護であり、7月に成立した住宅関連法により財務長官に与えられた広範な授権を具体化したものである。内容は大きく4つの要素からなる。一つは、GSE2社を米国政府の管理下に入れる(Conservatorship)ことであった。GSE2社の目的が、株式会社として株主利益の最大化を図ることから、住宅ローン市場への円滑な資金供給や納税者の保護という公益であることを明確化し、株式配当は停止される一方、保有するMBSの減少はさせないなどの効果を持たせた。GSEの最終的なあり方については、将来の議論を求めていた。2つ目は、今後四半期ごとに、両社が債務超過に陥れば、財務省がそれぞれ1000億ドルを上限として資本注入する(優先株購入)コミットメントを恒久的な措置(すなわちAgency債30年債の保有者でも満期まで保護される)として導入することである。GSE向けローンやAgency債など優先債権の保有者は保護されることとなるという、最も重要なポイントであった。8月に議会予算局(CBO)が試算した公的資金必要額は250億ドルであり、その8倍の資金枠をいわば見せ金として用意したことになる。

(注)GSEの在り方については、その後も議会での議論は進まず、10年たった2017年現在でも、GSEはConservatorshipのままである。

第3は、GSEに対する財務省の信用供与枠を2009年末まで確保することであり、第4は、財務省がGSE2社により組成・保証されるMBSを流通市場で購入すること(2009年末まで)であった。この最後の点が、先ほど述べた米からの問い合わせに関する点であった。民間のアセット・マネジャーを雇い、流通市場を通じる個別のMBS購入を決定・公表していくスキームであった。購入予定金額は市場の状況を見ながら決めるということで公表されなかったが、せいぜい数十億ドルとのことで、MBS流通市場の底上げに向けてアナウンスメント効果を狙ったものと推察された。

なお、GSEとの合意実施と引き換えに、財務省は「報酬」を受け取るとした。これは、GSEの普通株の79.9%を取得できるワラント(株式購入権)の取得である。既存株主にとっては、株式価値の希釈化という制裁であり、単なる税金を使った金融機関救済ではないという性格を強調するためのものであると思われた。こうした救済策により、GSEの株価はこの後も底を這い続けることになる。

9月8日(月)午前、事前に伊吹大臣にGSE支援策の概要を説明した。その際、MBS購入にかかる米国からの依頼についても触れておいた。本件は、サブプライム問題の国境を越えた広がりを考えると、国際金融市場の安定に資するG7の政策協調という側面があった。MBS購入は少額で済み、米国に恩を売る絶好の機会ではあった。一方、サブプライム問題は基本的に米国の問題であるとの認識の下、邦銀のエクスポージャーも小さい(邦銀の保有するMBSを購入するわけではない)中で、日本の納税者負担が生じる可能性がある措置をとることには当然ながら強い抵抗感があった。また、外貨準備で購入することを公表する必要があり、市場への影響から非公表である外貨準備の内訳を示すことに繋がるという問題があった。当面、引き続き技術的な検討を進めていくこととした。午前11時頃、大臣はぶら下がり会見で、米国のGSW支援策を歓迎する旨発言した。また、その日夜には、G7大臣間でテレコンが行われ、各国からポールソン長官の説明を歓迎するとの発言が相次いだ。8日のNY市場は、支援策を歓迎し、株価は上昇、ドルは若干強めに動いた。

このMBS購入の件については、リーマン・ショック後の9月下旬、再度財務省内で議論した。実際に購入する場合にはかなり大きな政策決定となるのだが、様々な技術的問題に加え、既に福田内閣の退陣が表明されている時期であった。米政府のMBS市場底上げ策を側面支援することについては見送った。

なお、翌年2009年10月6日付け毎日新聞一面は、「日本政府が米2社救済案」との見出しで、08年8月下旬、GSE2社を救済するため、日本が両社の社債数兆円を外貨準備で買い支えるとの計画(レスキュー・オペレーション)を検討したが、実現しなかったとの記事を掲載した。どこから得た情報に基づいたものなのか、不可思議な感じがした。GSE二社を救済するのは、あくまでも米国政府の仕事であった。

MBS購入で思い出されるのは、2007年12月上旬に提案されたM-LEC構想であった。米国大手銀行が幹事行となり、欧州や日本の銀行からも資金協力を得て、サブプライム関連商品を買い上げ、市場を支えようといったものであった。当時私のところには、米財務省の国内担当次官から電話があった。彼は、幹事行が邦銀3行に資金協力を要請しているので、日本当局にも連絡しておきたかったと説明した。米財務省の役割は、こうした市場主導の努力が良いとアナウンスすることであり、政府が直接実施するものではないとしていた。この構想は、邦銀を初め、金融機関の十分なサポートがなく頓挫した。

米財務省は、サブプライム問題への対応に当たり、常にMBS(不良債権)の何らかの市場価格での買い取りによる市場の下支えを最優先の手段として位置付け、金融機関への公的資本注入には消極的であった。できるだけマーケットベースで解決できないかという哲学があった。納税者負担を伴う公的資本注入を、バブルを自ら生み高い利益を上げた金融機関に対して行うことについて議会に納得してもらうのは容易ではないという判断もあった。日本からは、ベア・スターンズ・ショックの前から様々なレベルで、バブル崩壊時の日本の経験を伝え、金融機関が不良債権の早期処理を進めるためには、公的資本注入によるサポートが必要と言い続けてきた。MBSの劣化による資産サイドの棄損は、金融機関の債務超過に結び付くのであり、それへの対応としては資本増強しかない。しかし、やはり切羽詰まらないと進まないのは、日本と同じであった。GSE救済策で公的資金の道が開けた。リーマン・ショック後の金融安定化法(TARP:Troubled Asset Relief Program)の導入における議会とのドタバタ交渉も、同様の構図であった。TARPは、法案を通す段階では、公的資金によるMBSの買い取りとして説明されたが、実際には、資本注入にも活用できるよう幅広い授権を与えた法案であった。

9月11日(木)、パリでのOECD第三作業部会への出席をとりやめた私は、ワシントンに赴き、IMFストロスカーン専務理事との面会を行った。主たる目的は、副専務理事の加藤隆俊氏の任期(5年)が翌年に迫る中で、後任者を引き続き日本人にしてもらうお願いをするためであり、基本的には良い感触を得た。様々な経緯を経て、加藤氏の任期が一年延長され、私自身が就任することになるとは、その当時思いもしなかった。

翌日12日の朝、私は米財務省内のダイニング・ルームで、マコーミック次官と朝食を共にした。サブプライム問題の現状認識、リーマン・ブラザーズやメリル・リンチ等の金融機関が市場から強い圧力に押されていることなどを話し合った。既に、10日(水)には、リーマン・ブラザーズは、Q3の業績見通しを発表し、巨額の純損失を計上するとともに、資産圧縮・処分などの方針を表明していた。彼は国際金融担当であり、内情について詳細な情報を持つ立場になかったが、重苦しい雰囲気は伝わってきた。3月のベア・スターンズの処理が破綻回避でしのげたことから、何とかするのだろうと私はやや呑気に考えていた。彼は、個別の話はしなかった。ただ、too-big-to-failとmoral hazardの関係について話が及んだのは記憶にある。GSEのMBS購入に係る件についても問いかけがあった。私からは、米国と同様、アセット・マネジャーに委託する必要があるがその可否の検討には時間がかかるほか、外貨準備の運用をいちいち公表することは適当でないこと(しかし本件については公表しないと意味がない)など、技術的面に絞って説明し、GSE問題全体についてはサポートするが、Agency債はともかく、MBSの購入について米国に付き合う件は、検討を続けるものの難しいのではないかという趣旨を述べた。彼は、米国でもMBSの公的購入措置(納税者負担の可能性)については、先日の支援策に組み込むにあたり、そのpricingの問題を含め極めて難しい議論があったとして、理解を示していた。

朝食が終わりかけた頃、彼は私をポールソン財務長官に会っていかないかと誘った。ポールソン長官の部屋は照明を落としてあるようで暗かった。大きな部屋の片隅に、市場モニター用と思われるPCを載せた机があり、その前の仕事椅子に静かに座っていた。モニターだけがやけに光ってみえた。禅僧に近づいていくような重苦しい感覚を持った。長官のそばの椅子に腰かけると、例の朴訥な感じで、日本の政治状況(総裁選びと総選挙など)について短い言葉で質問してきた。何回か短いやりとりがあった。同席していたマコーミック次官が、日本は危機対応でいろいろ協力してくれていること、GSE問題についても各種制約のなか、何が出来るか検討してくれており、支援策自体に強いサポートを表明してもらっているといった話をした。長官は、それに感謝すると言ったあと、一言だけ、中国がGSE債購入に消極的であり、デットとエクイティの区別が余りついていないような感触があるとした。私からも、先日のG20代理会合時の中国人民銀行との会話で同じような感覚を持ったことを紹介した。長官は、日本の考え方が中国に伝わるよう願っているとしていた。

その時は分からなかったが、同じ日、12日夕には、ポールソン長官は、他の金融当局首脳や民間金融界トップとニューヨーク連銀の建物に缶詰となり、リーマン・ブラザーズ等を巡る協議を始めた。3日間に及ぶ協議の末、15日(月)、リーマン・ブラザーズは連邦破産法第11条(Chapter 11)の適用を申請した。

(注)図表については、IMFアジア太平洋事務所エコノミスト見明奈央子さんに作成して頂いた。

(了)

篠原尚之教授 備忘録シリーズ