PARI

A Few Reflections on the Demonisation of Putin

ロベルト・オルシ

東京大学政策ビジョン研究センター 特任講師

Read in English

「プーチンをまるで悪魔のように扱う現象(demonisation)は、明確な政策方針を表しているわけではなく、むしろしかるべき政策がないことの口実としての結果である。」ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)はかつてこのように断言したことがある 。キッシンジャーの発言がいかに重みのあるものであったとしても、周囲のロシア大統領への強迫観念は積み重なる一方であり、ウクライナにおける危機が続く中で今や新たな境地に達している。西洋のエリート階級の間では、ロシアの大統領がたとえ暴力的な手段を行使したとしても、野心的な対外政策を早々に終わらせたならば、ウクライナの危機とロシア帝国復古の問題は解決するだろうという考え方が主流となりつつある。

レーガン政権時の中央情報長官特別補佐官および中央情報局国家情報会議の副議長であったハーバート・E・マイヤー(Herbert E. Meyer)の論説は、このような考えをもっとも明瞭に述べているといえるだろう 。すなわち彼は、「ロシアのプーチン大統領は世界平和にとって重大な脅威」であること、また本質的に悪党であること、そして「プーチンのような悪党は罰をうけるからといって(この場合の罰とは欧州連合による制裁を指す)、あるいは、自分自身で誤りに気づいたところで、その行動をただすことはない。悪党というものは痛みに強く、自らの行動を変えることができない。誰かが強打を食らわせ永久に取り除くまで、彼らはその歩みを止めることはないであろう」と指摘した。また、ロシアはプーチンによる「独り舞台」(one-man show)であるため、プーチンさえいなければ、モスクワは世界平和の脅威ではなくなるだろうとも述べた。ロシアはどのみちプーチンを取り除くべきであり、その手段は平和的なものに限らず、「もしプーチンがすでに彼のキャリアは終わったことを認められないほど頑固で、彼を政権の座から追い出す唯一の方法が後頭部に銃弾の穴をあけられ殺された状態であるとしても、それはそれでかまわない」とさえ述べた。

マイヤーの議論は、ここ数年西洋のメディアが繰り返し圧倒してきた主題を精錬された形で明示的に言い表したものといえるだろう。プーチンはジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ(Anna Politkovskaya)とイギリスに亡命した元FSB職員のアレクサンドル・リトビネンコ(Alexander Litvinenko)殺害に関与したといわれている。また、プーチンはパンク・ロックグループのプッシー・ライオット(Pussy Riot)を迫害した人物でもある。マイヤーによると、プーチンは「同性愛者を嫌悪」しており、アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相によると「異なる世界に住んでいる」人であり、(バラク・オバマ(Barak Obama)米大統領によると)明らかに「歴史の誤った側にいる」人であるという。プーチンは精神的に病んでおり、現代のヒトラーである。

ヒトラーの比喩については、さらに検討する必要がある。ヒトラーとの比較は随所で目にするようになってきた。たとえば、ジョージ・W・ブッシュは政権時「ヒトラー」であったし、サダム・フセインもまた「ヒトラー」であった、またメルケルも反緊縮財政の抗議を行っている人々にとっては「ヒトラー」である、というように、「Reductio ad Hitlerum」(相手の考え方や言論をヒトラーやナチスになぞらえようとする方法)の議論は、多用されすぎている潮流が見受けられる。

一方で、このヒトラーの比喩は、昔ヨーロッパで人気があった「絶対悪」のシンボルとしての反キリストという終末論の象徴にとって代わるものであり、このような象徴の登場は、近い将来世界が終わり最後の審判が行われる予兆として考えられた。ナポレオン・ボナパルトをはじめ、プロイセンのフリードリッヒ二世やピョートル大帝といったヨーロッパのリーダーの多くが悪魔の手先とレッテルを貼られてきた。

形而上学的な絶対悪の表れとしてプーチンを捉える考え方は、その情報源を極端に正当化したり、単に比喩を通して示唆されたり、あるいは低レベルのプロパガンダ的な努力のための些細な問題へと狭められたりするよりも、より詳細な議論の中心となるべきである。そして、ヨーロッパ文化の文脈において、プーチンを政治舞台から追放する手段について取り組む方法は多分に存在するはずである。

大部分の法的道徳的システムにおいては、殺人は懲罰が科される行為と見なされる。しかしながら、他の人間を物理的に排除する全ての形態が「殺人」と見なされ違法になる訳ではない。明らかな自己防御の場合、あるいは戦地での合法的な攻撃は対象外となる。政治指導者を攻撃対象に定めることについての知的な問題は何も新しいことではない。戦争により政治的軍事的指導者を排除することと、その代わりに既存の政体における国内秩序をもって対処する方法の二通り考えられるだろう。

戦略的な観点からみると、「寝首をかく攻撃」と呼ばれてきたものの本質は、敵を構造的な混沌に陥れるために、軍事的・政治的双方の指令・制御の中枢を攻撃の標的にすることにある。この考えについては賛否両論ある。しかしながら、この考え方は明白な敵意が少なくとも目前にあるか初期段階にあるかのどちらかのシナリオに必ず言及しており、国家間の平和のための行為や処方箋として考えられるものではない。また、このような作戦は自動的に同様の報復行為を正当化し、予測不可能な結末につながりかねない無差別的な暴力の連鎖を生み出す可能性を包含する。

国際政治理論の歴史に精通した読者ならば知っているように、(いわゆる正戦論を反映している)西洋思想において、正当な行為としての戦争に関して驚くほど多様な意見がある。伝統的な議論では、キリスト教国間の戦争は高度に制限される一方で、異教徒に対する無制限の戦争は認められることが多かった。

聖書のユディト記において、ユダヤ人女性ユディトはベトリアが包囲される中、包囲軍の陣営に忍び込み、敵の将軍であるホロフェルネスを誘惑し、彼が酔って眠っている間に寝首をかくことで人々を助けた。この有名な先例のように、敵方の指導者を暗殺することは通常、絶望的状態における行動として受け取られ、それは全面的な虐殺戦争と連動するものと考えられる。

キリスト教国と非キリスト教国という二分法から距離を置いた国際政治の近代的な概念が登場すると、イマニュエル・カント(Immanuel Kant)は『永遠平和のために』において、その第1章の国家間の永遠平和を実現するための予備条項の第6条項でこの点を再び警告している。カントは、将来、和平協定を結ぶにあたって相互の信頼を築くことを不可能とするような全ての慣行(暗殺、毒殺、降伏違反、国家反逆の煽動)の禁止を要求している。興味深いことに、カントはこのような行為を「不名誉な作戦」と位置づけ、なぜそのような考えに及ぶのかを、端的に二段落で説明している。現在の国際情勢に鑑みた場合、この二段落は以下のとおり全文引用するに値する。


いずれも卑劣な戦略である。戦争中といえども敵を考えるなかに、なんらかの信頼が残っている。そうでなくては、いつまでも和平を締結できず、全面的な殲滅戦に陥っていくしかない。戦争状態とは、(そこでは法的な効率をもって裁決する場がないため)武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない。この状態では、どちらが正義であると裁定されることはありえない(ここでは裁判官が存在しないからである)。どちらに正義があるか決定するのは、戦争の結果でしかない。さらにいかなる国家のあいだにも懲罰戦争はありえない(そこには支配者と被支配者の関係は成立していないのだから)。さらに考えを進めると、殲滅戦にあっては、交戦国がともに殲滅され、それとともにすべての正義も消滅するから、永遠平和はようやく巨大な墓地の上に実現する。だからこそ、このような戦争は、戦争に導く手段もろともに、いっさい許されてはならないはずだ。しかしながら、手段そのものが避けようもなく戦争へ導いていく。すなわち、邪悪な謀みというものは、それ自体が下劣な性格のものであって、戦争中にとどまらない。人間の(こればかりは根絶できぬ)無節操を利用してスパイを送りこむといったこととはわけがちがう。当然のことながら謀みが和平時にも持ちこされ、平和の意図を根こそぎ壊してしまうだろう。(イマニュエル・カント(池内紀訳)『永遠平和のために』綜合社、2007年、59-60頁。)



敵を冷血に暗殺することは当然ながら、敵をまるで悪魔であるかのように扱うような言動を糾弾することは、すべての憎悪や紛争の廃絶を主張することにはならない。むしろ反対に、あらゆる形態の闘争においてありがちな、無制限戦争は他の形態の全面戦争を促すという矛盾を包含する。この点は古くからみられる議論ではあるが、残念ながらほとんど評価されていない。ここでの重要な点は、世界に紛争が存在するものであることを認識し、もし可能ならばシンボリックな形態へ事態を昇華させることも含め、紛争を最小限にとどめ、そこから得られる知見を活用することにある。ここでの論点は、明確に区分された境界(カール・シュミット(Carl Schmitt)の"Hegung"(限定すること)という概念)内での戦争に正当性を付与することによって、紛争を制限・抑制することである。NATOとロシアの間には敵意があるかもしれないが、それは無制限の全面戦争をもたらす理由にはならない。この枠組みでは、敵を中傷する行為は、それを行った人の尊厳と紛争による犠牲の価値を失わせる。ここでは、存在論的な従属関係を常にほのめかす敵の描写をたくらむのではなく、政治的妥協と外交的対話を常に実行可能な選択肢とするためにも、このように相手を蔑み、まるで悪魔であるかのような扱いをする方向に向かわないことがカギとなる。


繰り返しとなるが、敵をまるで悪魔であるかのようなイメージを作り扱うことに反論することは、憎悪をすべて取り除くことを意味するわけではない。憎悪は多くの人が持つ感情であり、人を構成する要素である。その一方で、このことはいわゆる「人間性」が不変であると示唆している訳ではなく、また「悲観的」で哲学的な人類学を是認している訳でもない。現在の射的は正直なところ限られてはいるものの、制限なき敵意が別の形態をとる危険に対して警鐘を鳴らすことにある。マタイによる福音にある「汝の敵を愛せよ(5:44)」ですら、私的な領域における敵("χθρ "、ラテン語の"inimicus")に限られており、政治的な敵("πολμιο"、ラテン語の"hostes")に当てはめられる訳ではない。政治的な敵を憎むことは合法的な行為であるようにも捉われがちだが、感情の犠牲になることは建設的な結果をほとんど生まないため、憎しみの感情に過剰に浸ることは決してよいことではないと言えるだろう。


プーチンが現在西洋世界を支配しているエリートたちにとって、恐るべき敵である一方で、それゆえに彼らは自らの勇気を示す歴史的機会を与えられていることを大いに活用すべきである。政治的指導者に求められる美徳のひとつに謙遜(“Bescheidenheit”)が挙げられるが、この謙遜は敵も含めたすべての人から学ぼうとする前向きな姿勢を包含する。国家を支配し軍隊を指導する宿命にある人々もまた、政治区分を超えた共通の運命を感じるべきである。


二つ目の知見は、政治的指導者が専制支配を行おうとする場合、その指導者の暗殺を許容する、あるいは義務としてこれを推奨するといった知識階級の伝統的な考えに基づくものである。すなわち、国内政治の問題ともいえるだろう。歴史的に「暴君殺害」の例は少なからずある。それらはアテネのペイシストラトス(Paisistratus)やジュリアス・シーザー(Julius Caesar)の例からも明らかなように、物議をかもすような評価や討論を引き起こしてきた。しかしながら、暴君の殺害は少なくとも二つの疑問を想起させる。一つ目の疑問は僭主政治(tyranny)ということば自体の定義についてであり、二つ目は国際政治との関係性についてである。


僭主政治は他の政治形態から区別されるべきであるが、それにもかかわらず往々にして誤った形で混乱されがちである。それぞれ重複する領域はあるものの、僭主政治(tyranny)、独裁政治(dictatorship)、専制政治(autocracy)、権威主義(authoritarianism) 、圧政(despo -tism)、絶対専制主義(absolutism)はすべて異なる概念である。僭主政治の概念は、個人もしくは集団が既存国家において、政治的権力のすべてあるいは大部分を掌握しているということのみを示しているのではなく、具体的に権力が公共利益の原則や既存の憲法上のルールに反して、君主自身の権力を維持する目的で、体系的な残忍さを伴って行使されるもので、専制政治の変形版ともいえる。


プーチンをどの程度の暴君として位置づけられるかは甚だ疑問ではある。プーチンは紛れもなくロシアにおいて最も権力を持つ人物である。それは、エウセビオウス派とその後コンステンティノス7世の時代に発展した、政治的秩序概念に言及するロシア憲法の設計と政治的伝統の結果であり、また、プーチンが力をつけた1990年代の混乱に乗じた例外的政治状況の結果でもある。プーチンが率いるロシアでは、諜報機関と軍の関係者、宗教的指導者、経済的支配階級、あるいは地方の有力者といった様々な権力者からなる連合が支配階級をなしており、その支配階級が国家を効果的に制御することができる程度に団結した権威主義国家である一方で、より洗練された多元的な将来の見通しを高めていくには十分とはいえない。


しかしながら、現在プーチンが憲法上の枠組みを超えたところで権力を行使していると議論する者はほとんどなく、嗜虐的で遍在する暴力を通じて全国民を人質にとり続けていることは、さらに知られていない。それどころか、政府による大手のメディアの統制がきわめて厳戒であるにもかかわらず、プーチンは安定した大衆による支持を得ているといえる。また、プーチンはロシア政治の中で穏健な立場を代表しているということすらでき、仮に彼が失脚したならば、更に急進的な政治家が台頭すると考えられるだろう。。


国際政治の見地から暴君を殺害するという問題を捉えると、そのような極端な行動の決定および道徳的政治的責任は、外部の人々ではなく、あくまでも暴君の権力にさらされる人々に帰するといわざるを得ない。上述の通り、全面戦争という痛ましい事態の場合を除いて、このような手段を望ましい外交政策として捉える理由はどこにもない。さらに一般的に言うと、国際政治を司る原則は、ユートピア的な不干渉原則においてそれほど認識されているわけではないかもしれないが、むしろ、外国からの干渉にかかわらず、歴史的かつ広義には人類学的な特異性を反映しつつ、政治的かつ憲法的秩序を体現するための一定の政治的共同体を有力者たちが構成するということが課題であるという信念において、理解される方がより適切かもしれない。


しばしば賞賛される「多様性を尊ぶこと」(Celebration of Diversity)を真剣に捉えたならば、それは文化を単純に民俗学のひとつとして捉えるわけにはいかない。なぜならば、文化は相違という視点だけではなく、相反する基本原則に依拠していることが多いことと同様に、政治形態の多元性を受け入れ、支持することが暗黙裡に求められるからだ。このような多元的共存にはある種の闘争性(agonism)と、領土を組織していく行動(territorialosation)が必然的に伴う。上記で説明した通り、この闘争性は具体的な縛りの中で正当化されるべきである。より多くを求め、その結果として全面戦争に陥るかもしれないという危険が偏在するからだ。


プーチンの失脚を強制する誘惑について話を戻そう。たしかにこの種の考えが深刻な逆効果をもたらすものとして却下する理由を数多く挙げることは可能である。プーチンをまるで悪魔であるかのように扱う政策は決して健全なものでも、また道徳的に立派な行為であるともいえない。また、反キリストがいつ現れるか、あるいは、この世の終わりがいつくるのかという点については、その時期を知る者は誰一人としていない。(「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。(マタイ24:36)」)ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の小説『薔薇の名前』(1980年)に登場する盲目の長老ブルゴスのホルヘ(Jorge de Burgos)の言葉を借りるなら、「反キリストはすべての人々のうちにあり、すべての人々に襲いかかる、すべての人が反キリストの一部なのである。」


2014年9月8日、東京にて