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グローバル政治の秩序と変化 ー「地政学の復活」を評価する

ロベルト・オルシ

東京大学政策ビジョン研究センター 特任講師

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全世界で厳しい国際情勢が続き、この数カ月間は特に緊張が高まっている。現在展開している国際秩序および今後の望ましい秩序に対して、より率直な思索が必要とされている。


議論の概略

ウォルター・R・ミードは、『フォーリン・アフェアーズ』誌に発表した論考「地政学の復活:修正主義大国の報復(The Return of Geopolitics: the Revenge of the Revisionist Powers)」(Mead, 2014)のなかで、冷戦が終わって長い時間がたち、フランシス・フクヤマがかの有名な著書『歴史の終わり(The End of History and the Last Man)』(Fukuyama, 1992)で述べた脱歴史世界は永遠に終わったのかもしれないと書いた。この脱歴史世界では、イデオロギーの大きな対立が解消され、これによって、世界支配をめぐる地政学的な大きな闘争もなくなった。人類は自由な議会制民主主義と自由市場資本主義へ向けて着実な、後戻りのできない一歩を踏み出した。ミード教授は、ロシアと中国という二つの非自由主義大国が「冷戦の政治的解決に抗っている」と主張する。その結果、領土やシーレーン、大陸塊、そしておそらくは海洋の支配をめぐる争いというおなじみの形で、大国間の新たな対立が姿を現しはじめている。ロシアと中国は修正主義大国であり、「プーチンのような人物がいまだに国際舞台を闊歩しており」、自由民主主義および資本主義経済の最終段階へ向けた道のりは長く困難なものになりそうだと彼は記している。

ジョン・アイケンベリーはミードの論考に激しく反論し、ミードの見解は「現代の大国関係の現実をまったく読み違えている」(Ikenberry, 2014)と述べた。アイケンベリー教授によれば、「現在の世界秩序の論理や性格」はミードが述べるようなものではまったくなく、そこには地政学的な競争関係や非自由主義大国の数少ない成功くらいではびくともしない、もっと根深い側面がある。したがって、「全面的な修正主義大国ではなく、時おり妨害行為を働く程度の中国とロシア」は、両国をほぼ取り囲む自由主義秩序に対する確固とした脅威とはならず、あくまで例外的な存在であり、やがて—予期せぬ紆余曲折はあるだろうが—自由民主主義(ほぼ全世界に広まっている)とグローバル資本主義から成る、世界的・包括的な米国主導の秩序に吸収されるという。さらに、1991-2014年に地政学的問題に注目が集まらなかったのは、米国が率先してグローバル秩序というイデオロギー的な夢にとらわれていたのが主な原因だとミードは考えているようである。アイケンベリーはこれに反論して、地政学とグローバルな自由主義秩序(つまり「価値に基づく」秩序)とを対立するものと考えるのは誤った問題設定だと主張する。地政学は決して舞台から去ってはいない。自由主義秩序の構築はまさに、大国間の地政学的競争を抑制することに関心が向けられるなかで強化された。アイケンベリーはこの100年の米外交政策の歴史を再構築しながら、ウッドロウ・ウィルソン、F・D・ルーズベルト、ビル・クリントン、バラク・オバマらの流れを受け継ぎ、米国中心の同盟システム、米国中心のルールにのっとったグローバル自由民主主義統治システム、米国中心の資本主義経済システムに依存する国際秩序が果たした目覚ましい成果を強調する。

しかしヨーロッパの読者は、こうしたアメリカ偏重の議論の範囲をもっと広げるべきだと思うかもしれない。「歴史の終わり」というフクヤマの適切とはいえない主張から、米外交政策を振り返る今日の文書に至るまで登場しているヘーゲルに、議論の起点を見いだすべきだろう。したがって本稿の目的は、グローバル秩序と地政学の問題を、そうしたテーマには背景となる哲学的考察が必要であるという考え方をはっきり受け入れ、その一方で、いまだに(程度の差こそあれ)根強いフクヤマ的な歴史解釈に伴う諸問題を明らかにしながら、探究することである。米国の学者らが推し進めたものに代わる地政学の解釈を、その哲学的基盤を事前に論じることなく理解するのはきわめて難しいと確信しているので、本稿はドイツの哲学者ヘーゲルの著作の異なる解釈を示すとともに、ヘーゲルは今でも現代を理解するための有力なヒントを与えてくれる可能性はあるにしても、現代の読者に対してはおそらく彼の歴史哲学に対する問題ある解釈よりも、彼の弁証法的論理に注意を向けるべきであると提言したい。本稿後半ではまさしくその弁証法的論理に回帰することによって、グローバルな政治状況、今後の展開、未解決の問題を概観し、さらに地政学の問題に対する新しい評価を提供する。


「ヘーゲルの未来学」はない

この20年間に国際研究の分野でヘーゲル哲学が復活し、彼の歴史哲学の解釈の最大の弱点の一つが非難されているのは注目に値する。その弱点とはすなわち、世界精神(Weltgeist)の強化をめざす目的論だ。とりわけ問題なのは、人類は最終的に自由民主主義とグローバル資本主義のもと、現状維持政策の最終段階である永遠至福の境地(nirvana)に達する運命にあるという考え方である。以下に説明するように、ヘーゲルは進歩という概念を再構成し、歴史とその意味について深く考えをめぐらせたが、いかなる形の未来学にも(未来学というものがいかに高度なものであっても)あえて手を出そうとはしなかった。それどころか、よく知られているように、哲学とは一日の終わりに飛ぶフクロウのようなものだと述べ、歴史の考察は「事後」においてのみ有意義であることを示した(Hegel, 1911 1811: 17)。

ヘーゲルの活用およびそれに関連する問題についていえば、ヘーゲル哲学全体の主要なポイントの一つは、彼の先駆的な「反基礎付け主義」である。彼の偉大な哲学的成果は、継続する激しい変化に巻き込まれた世界の認識論的なイメージをつくり上げた点にある。ヘーゲルがその哲学体系を築く背景となった認識論的議論をここで説明すると、長くなりすぎる。紛争・対立を通じた絶え間ない変化というヘラクレイトスの原理を前例として引きながら、ヘーゲルは「生成」を、人間存在だけでなく、人間が知るための方法、知識そのものが歴史的に構築される方法をも特徴づける要素として指摘している。存在論的目的論の実体化(世界の目的因は実在を付与されているという考え方)を認めるのではなく、また形而上学的終末論(形而上学的原因に基づく世界の終わりおよび最終的運命の理論)を構築するのでもなく、あるいは世界および世界政治の未来の予測を試みるのでもなく、歴史的に定義された主体の社会的行動を方向づけるための行為(したがってつねに、具体的で現在に関連した文脈のなかでとらえられる)として、ヘーゲルの歴史考察を理解するべきである。

ヘーゲルの出発点は、人間のありようを、あらゆる人間が社会化される既存の社会機関と切り離せないものとして理解することにある。したがって人間のありようは、グループ、「我々」という集団性、そのようにグループ化された人間で構成される何物かという表現形態をとらなければ、十分理解することはできない。精神(Geist)という概念は、ヘーゲルの哲学的主張を組み立てるための主な概念装置である。人間の意志が導く出来事とは無関係な内在的な力として誤って具体化されることもある精神(Geist)は、複数の個人を行動可能な主体とする明示的・暗示的なイデアであるが、ひいてはそうしたイデアの担い手である人々、機関およびモノをも意味している。

精神は、正しい判断および行動に影響するイデアを含み、絶え間ない変化のプロセスにさらされている。したがって、集合的な社会的主体の性質は、その歴史性(Geschichtlichkeit)のなかでのみ把握できる。理論家や哲学者の視点からは、 歴史への考察は人間の現状を知るためにおこなわれる。歴史に対するヘーゲルの哲学的分析は、現代の自己認識の限界を明らかにするために精神(Geist)を熟考するための事業であると考えられる。

現在の精神(Geist)の限界を拡大するのが歴史考察の役割だとすると、そうした考察は否応なく現在というものを、その文化の発展の最高段階、ありとあらゆる過去の到達点と考える。しかしその場合、現在は常に、歴史的事象の到達点という意味での歴史の終わりであるどころか、さらなる変化に対して開かれていることになる。


ヘーゲルの弁証法的論理の復権

人類の歴史が一つの政治経済組織モデルの肯定に否応なく向かっているとの解釈が認められているとすれば、それはヘーゲルなりの立場からの歴史評価に対する脱文脈化された解釈に由来する(ヘーゲルは19世紀初めのドイツの哲学教授だった)。


「歴史の終わり」についてみるならば、ヘーゲルは「歴史の終わり」という発言を、1806年のプロイセン軍の敗北に続くイエナの戦いにおけるナポレオンの勝利を見て口にしたとよく言われる。若きヘーゲルはナポレオンのフランスの革命思想を支持しており、革命と反動のせめぎあいは、ヘーゲルやその同時代人には、彼ら世代の歴史変遷を解くカギと映った。もちろんヘーゲルは、ナポレオンで歴史が終わると言ったわけではない。結局、このコルシカ島生まれの英雄は1812年に敗退する。だが、この時代のヨーロッパ人にとってナポレオンが中心的な歴史的人物であったこと、革命思想が必然的に知的思考の中心を占めたことは容易に理解できる。一般に、社会的行動として歴史の再評価をおこない、今日の精神に関連性・重要性がありそうな脈絡を選び出すのは、後を受け継ぐ各世代の仕事であろう。

ここまでで、「歴史の終わり」という面でのヘーゲルの復活が特に幸運なことではなく、(当然ながら)生産的でもない理由は読者にとっては明らかなはずである。不安定な目的論的基礎付け主義を中心としたヘーゲルの活用にこだわるよりも、この哲学者の仕事の他の側面、とりわけ弁証法的論理に着目するほうが実り多いはずだ。彼の弁証法的論理は、世界観の限界を克服する暗黙の要求を含んでいる。


弁証法的論理は批判的思考への入り口である。弁証法的論理に照らすと、歴史的変化はテーゼとアンチテーゼという、相反する原理(イデア、思考体系)の衝突として説明できる。この両者の衝突・対立がいずれはAufhebung(「克服」「止揚」などさまざまに訳される)され、新たなシステムの誕生につながる。ついで、この新しいシステムが 継続的な弁証法的プロセスというテーゼを構成する(特にHegel, 1833: 77-208を参照)。

古典的には、テーゼとアンチテーゼの対立は逆説的相互依存という形をとり、それが構成要素の融合を通じて差異の克服へと至る。したがって冷戦は、自由市場資本主義および自由民主主義と、共産政権支配下の計画経済との弁証法的対立と解釈することもできる。共産主義勢力は敗れたが、対立の結果生まれたグローバルな政治的イデオロギーの中には、ソ連が主導的に支持した事柄を数多く採り入れている。たとえば、国家が最低限の社会保障(基本的な住宅から教育、医療まで。西ヨーロッパ諸国の福祉制度に見られる)を提供するシステム、脱植民地化と自己決定、女性解放、脱宗教化などが挙げられるが、その多くは(全部ではないにしても)西側陣営が当初、多かれ少なかれ反対していたものである。

その結果、世界は冷戦時代よりもはるかに相互のつながりを増している。そこでは全体的な相互依存という逆説的な関係により、弁証法的思考が現在のグローバル秩序の性質およびそのなかでの地政学の役割についてどの程度明らかにしうるかが明確になるだろう。こうした本質的な相互関係は、自由民主主義体制と非自由主義独裁体制との対立を主張する論調によってはおそらく十分にすくい上げることができない。そもそもそうした主張が重きを置くのは正式な憲法上、法律上、外交上、軍事上の関係である。そこにはもちろん最大の考慮を払うべきだとしても、しかしその水面下には、グローバル秩序を理解するうえで大切な要素が他にも存在しているのである。


これ以後の項目では、秩序と民主主義をめぐる話法の複雑さ、国際主体間の相互依存の網がもたらす国際政治への影響について見ながら、それらの要素を簡単に説明する。次いで、三つの主な問題を強調することによって、ある種の将来的な世界秩序を設計、あるいはたんに想像するための選択肢を検討する。最後に、こうしたシナリオとの関連で、地政学とそのいわゆる復活について評価する。


秩序と民主主義

すでに述べた、自由民主主義国家(米国およびその同盟国)と非自由主義独裁国家(ロシア、中国およびその同盟国)の対立が、問題の複雑さをすべて説明してくれるわけではなさそうだ。ロシアと中国は実はまったく異なる政治体制をとっている。中国の特徴は一党独裁で、検閲が厳しく、政治的自由の制限が法に明記されている。手本としているのは主に旧ソ連の体制である。ロシアはこれとは異なる。モスクワを支配しているのは、軍当局者、諜報機関職員、大物実業家、地域有力者、宗教指導者など、ある種の複数政党制の枠組みのなかで、個人的な利害から共通の思想的プラグマティズム(プーチニズム)まで各種の合意によって結ばれた、もっと多様な人たちである。実際、ロシアを民主主義国家と見なせないとする主張は、憲法のあり方を重視しているのではない。むしろ複雑な分析の対象となるのは、ロシアのメディアシステムの不均衡、政治リーダーによる合議システムのありかたである。興味深いことに、ロシアの主な野党はしばしばプーチンのとっている立場以上に非自由主義的・独裁的であり、もっと危険な外交政策を標榜することが多い。

ほぼ全世界に行き渡った民主的統治に基づくグローバルな自由主義秩序のほうも、よくよく見ると、それほどうまくいっているわけではない。一つには政治的秩序の問題もあり、また、民主的統治の正統性にかかわる問題もある。

現代は民主主義という考え方が劣化している感がある。これは多くの点で、数世代前、国家という概念に関して国際法学者が嘆き悲しんだ状況に似ている。当時、特に第1次大戦前の世界はヒエラルキーで構成され、その頂上に位置する主権国家が自治領、保護領、植民地など、さまざまな他の政体を支配していた。一定の政治組織が国家としての地位を正当に主張できるとすれば、法学者がその特徴としたのは、ヨーロッパ的な政府の慣行(安定した法・財政システム、国境の支配、裁判所、官僚制、適切な防衛力、経済的な持続可能性)に従った一定領土の実効支配、そして他の国家によるそうした地位の認定であった。これは要するにヴェストファーレン国際法の秩序である。しかし、上述の要件の一部のみを持つ存在が「国家クラブ」への加入を認められることで、国際的主体としての「国家」という枠組みそのものが(いささかヘーゲル的な)劣化のプロセスに苦しんできた。この現象が顕著になったのは、オスマン帝国がヨーロッパの国家間関係システムの仲間入りをした後であるが、新しく形成された中南米諸国、コンゴ自由国(1885-1908年)など仮想国家の例があって、その傾向はさらに目立ちはじめた。第1次大戦および第2次大戦に続く時代は、国家と認定された国