ウクライナ実験の後戻りできぬ危機
東京大学政策ビジョン研究センター 特任講師
現在進行中のウクライナにおける危機を異なる観点から分析すると、様々なストーリーが生み出されるかもしれない。これは軍事関係における危機なのか。それとも、ロシア、西側、そしてウクライナ自身に特有な指導部の心理的状態の産物なのか。資本主義における新たな危機なのか。終末論的な善と悪の戦いなのか。このような問いは他にもあるだろう。本稿では、この危機をウクライナ国家の危機、または地政学的な実験による危機と捉えることにする。この実験とは、ウクライナ指導部側の意図的な政治的野望よりも歴史的偶発による部分が大きく、過去には成功する可能性がある程度あったのは確かだが、最終的には失敗に終わったように思える。
ウクライナとは何か
ウクライナは1991年のソ連崩壊によって独立した「ソビエト後」の共和国である。このことはよく知られているが、ウクライナ国家が形成されるまでの歴史的過程はもっと複雑である。今日のウクライナ領は、ハプスブルク君主国の統治下にあったガリツィアが位置する極西地域(リヴィウなど)を除き、そのほとんどが1917年までロシア帝国に属していた。歴史的に見ると、キエフは、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人の祖先である東スラブ人にとって初めての国家(キエフ大公国)が成立した場所である。モンゴルによる占領の後、東スラブ民族の中心地がノブゴロド、そしてモスクワへと移る中、キエフ地域はポーランド・リトアニア共和国の支配下に置かれた。しかし、現在のウクライナ東部、南部、クリミアはかつてオスマン帝国の支配下にあったため、これら地域のほとんどが歴史上ウクライナに含まれることがなかった点は注目すべきである。状況の変化は18世紀に起こった。ロシア帝国の西方・南方への拡大は、プロイセン、ハプスブルク君主国、ロシア帝国による一連のポーランド分割の後に、現在のウクライナ中部の大部分がロシアへ編入されることにつながった一方で、クリミアを含む東部・南部におけるオスマン帝国支配の終焉にもつながったのである。新たに獲得した領土(一部は歴史的にノヴォロシア、即ち「新しいロシア」と呼ばれた)における深刻な人口減少のため、ロシア皇帝は、帝国全土から入植者を次々と募り、ドイツ人の入植さえも呼びかけた。
ロシア帝国による統治が続く中で、19世紀後半以降、ロシア人とは切り離された政治的および民族的な独立体としてのウクライナ国家という概念が、徐々に戦略的検討の対象となった。そしてこのことが、ロシア帝国の政治的事業の柱であるロシア正教の下で東スラブ人を統一する、という政策に対する疑問へとつながった。したがって、過去の領土よりもはるかに拡張した国境を持つウクライナが、ブレスト=リトフスク条約の結果として地政学上の独立体として最初に再現されたことは、当然のことと言えよう。ドイツ国とオーストリア=ハンガリー帝国が、第一次世界大戦の東部戦線においてロシアを破った後、戦勝によって得たウクライナを分割することとなったのも、この条約によるものである。このウクライナ国家成立への初めての試みは長くは続かず、1918年の中央同盟国の敗北後まもなく崩壊した。ウクライナ領土をめぐって様々な勢力が争う状況になったが、この地は最終的に赤軍に攻略され、ハプスブルク君主国の支配を受けた地域とその他の西部地域は、ユゼフ・ピウスツキ元帥に率いられ新たに成立したポーランドに併合された。そして、ソビエト連邦の構成国であり、ハルキウを首都とするウクライナ・ソビエト社会主義共和国が、ボルシェビキによって設立された。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、スターリン主義政権のありとあらゆる極端な側面を目の当たりにした。1930年代の農業政策は、ロシア南部やカザフスタンと同様に広範に渡る飢餓を起こし、農村地帯における既存の社会主義型組織に壊滅的打撃を与えたが、その一方で急速な産業化と都市化のための多大な投資も行われた。
第二次世界大戦はウクライナの政治地理学的な立場を根本的に変えることとなった。1939年9月のドイツとソビエトによるポーランド侵攻を機に、スターリンはガリツィアそして後に(ルーマニアから)ブコビナを編入し、ソビエト国境を拡大した。その後ウクライナ全土は、1941年のバルバロッサ作戦でナチス・ドイツに征服され、1943〜1944年までドイツ占領下におかれた。ドイツは、キエフやドニプロペトロウシクやニコラーエフの西に位置する地域に、帝国管区ウクライナと呼ばれる管理地域を設置した。ナチス親衛隊とその他の準軍事組織は、地元協力者と共に、都市部人口の多くを占めるユダヤ人を抹殺した。赤軍がウクライナ地方を再び征服した時、そして世界大戦後に、少数派のドイツ人やポーランド人は西方へと追い出されたが、その一方で、再度成立したウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、ガリツィアやブコビナ、そして従来からハンガリーの一部でありカルパティア山脈を超えて横たわる地域(トランスカルパティアと呼ばれる地域)の永久編入によって、さらに拡大していた。この編入により、ソ連は、中欧のパンノニア盆地への直接アクセスが可能となり、ハンガリーとチェコスロバキアとの国境を有するようになった。
第二次大戦後のウクライナでは、西部の反ソビエト的なパルチザンが1950年代初期まで苦闘するかたわら、大規模な経済再建が行われた。他のソビエト計画経済圏諸国と同様に、1960年代後期に経済発展が大幅に減速し始め、1970年代半ばまでにソ連経済は停滞状態に陥った。それにもかかわらず、ウクライナはソ連のなかで最も生活水準の高い地域のひとつで、ロシアの平均水準を上回っていたことは確かであろう。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の経済は、他のソビエト共和国のほとんどがそうであったように、決して他の共和国から独立して機能するようには設計されていなかった。ウクライナは産業の中心地として、ソビエト領土のほかの地域からのエネルギー供給や、共有する輸送システム、そして産業統合に頼っていた。ウクライナはまた、NATOとの武力衝突に備える赤軍の予備兵力や、冷戦終結時には1200を超えた戦略核弾頭や2500を数えた戦術核ミサイルといった具合に大量の兵器を抱え、欧州での軍事展開における要所となった。
ソ連の終局における危機とそれに続く崩壊の際に、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の指導部は、ロシアはもちろんのこと、他の旧ソビエト共和国と関係を断つことによって、より高い水準の繁栄を実現できるはずだと確信していた。しかしながら、数年でGDPが60%縮小するといった非常に困難な経済的移行期や、ハイパーインフレ、大量失業、極めて非効率的で不正行為がはびこる多大な産業資源の民営化という厳しい現実が、初期の楽観的な傾向に取って代わった。これらに加えて、ウクライナは、全ての市民に浸透するような、ウクライナ人としての自己認識を説くことに苦心しながら、後に市民間の対立を招くことになる国家建設の複雑な過程を辿らなければならなかった。だが、このような、国家に強調され、実験的ともいえるウクライナ人としての自己認識は、ロシアに対する純然たる反対や、(あらゆる犠牲者の扱いがそうであるように)非生産的な犠牲者の扱い、あるいは単に奥深さがない歴史的背景にその根拠を見いだせていないように見える。
この激変の最中、1991年以後のウクライナ国家は部分的な統合を不安定ながらも成し遂げたが、これは、国の東部(地域党)と西部の間や、支配層と一般大衆の間、中央(キエフ)と地方の間、大統領と議会の間、西側諸国(米国や欧州)とロシアの間のバランスを保つ複雑なシステムによってのみ実現されたものである。キエフはロシアの影響圏に属しているとよく描写されるが、ロシアからの天然ガスに大きく依存していたにもかかわらず、モスクワに対しては実際にはむしろあいまいな立場を取っていた。ウクライナは、1990年代後期に西側寄りの旧ソ連共和国の連合体であるGUUAMグループに加わった一方で、ロシアと幾つかの旧ソ連共和国との安全保障同盟である集団安全保障条約機構(CSTO)には参加しなかった。キエフとモスクワの間の協力不足は、この独立国家共同体が1991年当時に構想されたような旧ソ連共和国による連邦形態して機能しなかった主な理由であると捉えることができる。
独立国家としての23年の間に、ウクライナは現実的な経済モデルを開発できず、ほぼ全ての市民の生活水準を引き上げることができなかった。ソビエト連邦から受け継いだ大規模な産業部門は急速に価値を失ってきているが、これは直面する国際競争や、慢性的な投資不足、そしてとりわけエネルギーの国際価格が上昇する中で、ロシアのエネルギー源に対する構造的依存を軽減できていないことに起因している。農業部門は、良質な土壌のおかげで潜在的な成長は多大であるが、深刻なまでに開発が遅れている。こうした背景にある経済的失敗を考えると、多くのウクライナ人が欧州やロシアに移住していることは驚きではない。出生率が低いこともあり、ウクライナはまさに劇的な人口の内部崩壊の最中にいるのである。
現在の危機
経済破綻、人口の内部崩壊、蔓延する汚職、内部や外部における政治的分極化、明白な干渉とまではいかないような圧力という事態に直面し、ウクライナは長い間、極めて薄い氷の上を歩いてきた。実験的なウクライナ国家の弱さは、危険な反応のメカニズムを数多く作りだした。つまり、キエフが脆弱であるほど国際的圧力や国内の圧力が高まり、こうした国際的圧力が高まるほどキエフが弱体化するというものである。2004年のオレンジ革命が終焉の始まりを示していた。大統領選挙結果をめぐる論争とそれに続く政治的動揺は、慢性的なエネルギー代金の支払不能状態と共に、ロシアとの深刻な危機につながったのであった。キエフへのガス供給の停止などが行われ、最終的にキエフは、ウクライナを通過するロシアから欧州への天然ガスを抜き取る手立てに頼った。
この2004年の危機は、様々な意味で親欧米派が逃した好機であったといえる。ユシチェンコとティモシェンコは、国家の新しい方向性を印象づけることに失敗し、ウクライナがまさに必要としていた大規模な経済改革を推し進めなかった。その代わりに、2005年頃にわずかの間だけ起こった国際鉄鋼価格の高騰に大きく頼り、構造調整を後回しにした。西側、即ち欧州連合(EU)と米国は、西側メディアからの美辞麗句に見られるオレンジ革命に対する強い支持とは対照的に、ウクライナ国家やその経済の再建戦略をなんら持っていなかった。もし持っていたなら、エネルギーの多様化をある程度達成しながら、ウクライナの欧州経済への統合が無理のない形で行われただろう。だが、世界貿易機関のデータによると、ウクライナにとってロシア連邦は今なお最大の貿易相手国であり、2012年にはロシアはウクライナの輸出の25.7%(EU全体は24.9%)、そして輸入の32.4%(EUは30.9%)を占めた。米国は、ウクライナの輸出のわずか3%、輸入の3.4%を占めるにとどまり、ウクライナの主要貿易相手国とはなっていない。興味深いことに、旧ソ連共和国であるグルジアの例にも見られるように、米国が将来の同盟国の産業再建を十分に支援できていないことは、ここ何十年かでの米国の外交政策における最も深刻な限界のひとつとして現れている。これは、第二次世界大戦後の西欧・日本の産業再建に対する戦略の歴史的成功とは対照的である。
現在の危機は一連の様々な要因が集中して起こったものである。まず、ウクライナ国家が再び経済破綻の寸前にあることが挙げられる。このことは、外部勢力がその影響力を再び顕示する機会を与えてきた。これには、ここ何ヶ月かで見られたように、あからさまな直接介入さえも含まれる。米国とEUによるウクライナの西側への引き寄せ(そしてロシアによる東側への引き寄せ)が、憲法的な枠組みをあからさまに犯すことなく、ある一定水準を超えない程度で行われていた場合に限り、ウクライナはその不安定な存在を継続できたであろう。危機以前の主要な政治家・政党(ユーリヤ・ティモシェンコ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ、ティモシェンコ陣営、地域党)はこのことに鋭く気づいていた。加えて、ウクライナがいかに二極間でしか生き残れないのかということにも気づいていた。あからさまにロシア側につかず(つけば西部地域の離脱という事態に直面したであろう)そして西側にもつかず(つけば、現在起こりつつあるように、東部・南部・クリミアという国家の約40%を失っただろう)という具合にである。矛盾するようであるが、西側の報道陣がよく言う「ロシアの操り人形」とはかけ離れた政治能力の不十分さや、腐敗した政治家の現れであることにもかかわらず、ヤヌコーヴィチは実際のところウクライナ国家の存続を支持する数少ない指導者の一人であった。
危機の発端となった西側への引き寄せは、EUとの連合協定という形で行われた。この種の条約は、調印国が近い将来確実にEU加盟国となること自体を意味するものではない(そのような条約はトルコが1963年に調印したが、いまだにEU加盟国になるには程遠い状態である)。しかし、ウクライナ特有の国際的文脈において明らかに表されたことは、同国が将来ロシアとは離れて、EUと統合することを望んでいるということである。このウクライナがEUと統合するという見通しに対して、ベラルーシとカザフスタンとのユーラシア関税同盟という競合プロジェクトに長らく取り組んできたモスクワは即座に対応した。ウクライナに長期に渡る劇的な経済再建を再び経験させるという選択肢がなければ、現在のウクライナ経済がEUまたはロシアとの関係を断つことができないのは明らかであろう。しかし残念ながら、EUとの連合協定もユーラシア関税同盟も主に相互排他的なものとして提示された。
国際的圧力に対するヤヌコーヴィチの不手際な対応や、純粋な政治的不満、欧米からの強固な支援に助長されて強まる親欧米派からの抗議は、憲法秩序の崩壊につながり、両派から何十人もの死者を出した。暫定政府が設立されたが、それが早急に行われ、国全体を代表して声明を発することができなかった。地域全体が即座にモスクワの方を向き始めたからである。このウクライナ分裂のシナリオは、ロシア政府が長年にわたり目論んでいたものであり、それ故に現在の事態が、事前に調整された情報収集や軍事機構の膨大なネットワークを拠りどころとしたコンティンジェンシープラン(不測事態対策)の一部である可能性は高い。二週間ほどで滞ることなく行われたクリミアの編入は、有史上最も成功したインテリジェンス作戦のひとつで、おそらく即興的には起こりえなかっただろう。ある報道によると90%以上のウクライナ軍人がロシア側へ寝返ったとも言われるこのクリミアでの出来事は、ほとんどのウクライナの軍部と諜報機関が実はモスクワ寄りだという印象を裏付けるものとして重要である。
この時点においては、キエフの暫定政府は非常に脆弱に見える。政府が東部地方だけでなく、超国家主義グループが支配する西部をもどの程度統制できるかは疑問である。また、政府が意味ある軍事手段にどの程度頼ることができるのかも疑問である。5月25日に行われる大統領選挙を組織する政府の能力についても不確実だ。選挙は特に東部においては妨害されやすく、また選挙結果は西部の過激派にも十分に受け入れられないかもしれない。
ロシアの立場
今回の危機におけるロシアの立場は、クリミアがロシアへ編入される際にウラジーミル・プーチン大統領が国家院で行った演説の中で包括的に説明されている。この演説は、理路整然とした包括的なストーリーであるという点や、クレムリンの決定を支える理論的根拠に直接的な洞察を与えたという点において注目に値する歴史資料である。
少しでもロシアに関係したことがある者にとって、ロシア・ベラルーシ・ウクライナが姉妹国家、あるいは同じ民族の末裔であるとの考えは、ロシア以外にもかなり広まっていることでもあるので、とりわけ新しいと感じることはないだろう。ロシア大統領は、ロシア人とウクライナ人の混合の程度が高いことをあらわにするこのストーリーを力説してきた。さらに重要なのは、大統領がソ連終焉についての歴史的再構築を力説してきたことである。それは、1991年に行われた連邦の将来に関する国民投票で表明されたある種の連邦という形にとどまるという民衆の意思に対する裏切りを強調することとなった。プーチンは確かに、独立国家共同体(CIS)の初期構想がいかに、共通の通貨、経済圏、外交政策、軍隊を有す連邦制の超国家構想であったかを回顧している。CISはそれどころか全く機能せず、国境線となることなど意図されていなかった行政上の境界線が何千万もの人々の生活を分断することとなった。それ故にプーチンは、おそらくロシア人というのは、最大数の国家への分断化を耐え忍ばなければならない民族なのであろうという見方をはっきりと述べてきた。
ロシア大統領は演説の中で、彼の考えている選択肢を明らかにしすぎないように気を配っているように見えた。一方では、ウクライナの統合と主権という原則を再度断言し、しかしまた一方では、さらなる介入に対する権限を彼は有しており、その可能性をほのめかした。プーチンは結局、ウクライナの大部分が、ロシアと他の旧ソ連共和国を含むある種の連合体に属する主権国家になると考えているのであろう。そして、上述したようなキエフの国家運営に関する明らかな無能さを考えると、実際に何がウクライナを構成するのかについては議論の余地があると言える。
プーチンの演説の最重要点のひとつは、1990年のドイツ再統一の過程に似たロシア領土とロシア精神の再統合の過程として、現在の危機を描いることである。これは確かにロシア人聴衆に非常に強烈な印象を与え、ロシア人の愛国心や、国家的屈辱を感じながら過ごしたこの20年間に蓄積された怒りに対して訴えるものである。このようなストーリーの確立は、おそらくロシア世論に対する背水の陣を表し、特に軍隊と安全保障機関におけるロシア人エリートの多くに対しては、後戻りできないような重大決心を確かに表している。それによって、ソビエト後の地政学的妥協に対するある種の修正論を伴う国家再建という大事業に、大統領が撤回などできない程に取り組んでいること、そして(ソチオリンピック開会式の演技構成で視覚的に見せたような)政治的事業や21世紀ロシアの理想像に賛同する者が見捨てられるようなことがあってはならない、ということが明らかになる。もちろんこの立場の必然的結果は、クリミア編入で既に明らかになったように、ロシア指導部はウクライナ国家の自立など全く考えていなく、「ウクライナの実験」を永遠に終わったものと捉えていることである。
米国の立場
米国のキエフに対する関心には長い歴史がある。ウクライナ(もっと一般的にはロシア帝国の旧領土)は多くの米国人にとって起源を持つ地域である一方で、冷戦終結以後、米国の戦略家は「ウクライナなしのロシアは単にロシアであり、ウクライナを伴うロシアは帝国である」という見解を形成した。この見解は、1998年出版のズビグニュー・ブレジンスキーによるThe Grand Chessboard: American Primacy and Its Geostrategic Imperatives(大いなるチェス盤:米国の傑出と地政学的戦略における緊急事項)という本で詳細に説明されている。そこでは、数々の小規模で根本的に無力な政治集団ができるような分断化に的を絞ったウクライナ弱体化政策を米国が積極的にとることが提唱されている。
このような背景から、国務省が当初からウクライナの政治情勢を綿密に監視してきたことを疑う余地はほとんどない。だが、ウクライナに対する米国の政策には数多くの欠点がある。上述の通り、ウクライナを西側陣営へ引き寄せるという目標が明言されたにもかかわらず、キエフが1991年以来必要としている大規模で長期的な産業再建に関しては、米国は十分な経済的支援を提供してこなかった。G.W.ブッシュ大統領の新政策により、ウクライナは2008年には既に北大西洋条約機構(NATO)に参加していたはずであったのだが、ウクライナ国内の多くの地域におけるNATO反対の強い感情に加えて、フランスやドイツからの反対もあり、放棄された。
一般的には、少なくとも2004年以来、モスクワはウクライナ分裂の場合に備えて不測事態への対策を練ってきた一方で、ヤヌコーヴィチの選出は正当なものであるとワシントン(そしてEU)が受け入れたにもかかわらず、彼の追放を支援してでもウクライナを西側に断固として引きよせようとすることの潜在的な結果をワシントンは正しく評価していなかったのかもしれないという印象がある。国内における数多くの異なる勢力や関係者の間の均衡が非常にもろいために、現に起こりつつあるような急激な地政学的変化によって、ウクライナ国家があっさりと分裂するかもしれないということを、米国の戦略家は予見していなかったかもしれない。モスクワの素早い反応もワシントンは完全には予測していなかったようである。これは、この地域におけるモスクワの力量や現地での米国の諜報活動に関する評価が相当に不十分なことを表している。
米国はまたもや、ある重要な局面での暴動に決定的な貢献をするといった厄介な立場に陥った。米国が大規模なリソースの投入と西側メディアの動員を行ったことにより、既に2008年のグルジア危機において、南オセチアの支配を目的としたサアカシュヴィリによる壊滅的な軍事行動の際に起こったような、現地の協力者や味方(キエフの臨時政府、西部の民兵隊、抗議参加者、活動家)が決定的な瞬間に次々と見捨てられることになった。
ウクライナ危機は、米国の外交政策がいかに大きなグレーゾーンを伴いうるかを明らかにしている。このグレーゾーンとは、ほとんどの国際政治専門家がその存在を疑わないであろう大規模な諜報活動だけでなく、特に国務省全体と米国政府の上層部にも関連する。国務省は、自らが認めるように、憲法の機能停止の危険性を受け入れるほど、自らのウクライナ戦略に多大なリソースを使ってきた。その一方で、ケリー国務長官とオバマ大統領は、一連の事態に驚きを隠せず、情勢を評価し外交的対応策をとる用意ができていないようであった。このことを考えれば、外交担当政府機関やキエフにおける米国の権益担当政府機関の基本要素同士の断絶は明らかである。オバマ大統領は、ウクライナの暫定首相ヤツェニュクと全く不要な会談に応じ、ヤツェニュクは(武器でなく食料の供給の申し出を受けたことを除いては)完全に手ぶらで会談を終えた。これは、ワシントンの戦術上の困惑を示す不吉な兆候である。
EUとドイツの立場
これまでのところ、EUは最も不器用な対応をしており、欧州大陸の東部におけるEUの印象を著しく悪化させている。ビクトリア・ヌーランド米国外交官が正式な印刷物に記載するには適さない言葉で露骨に非難したように、EUは、自らが有益な役割を果たすことなどできないような危機の火付け役となってしまった。非常に不利な条件の連合条約の調印をヤヌコーヴィチに提示したのである。それは、もし署名できるとすれば、支配層の大部分をも含むほとんどのウクライナ人の重要な経済的利益を完全に無視することができるような大統領だけであろうと思わせるほど不利なものであった。条約における計画では、見返りが皆無に等しいにもかかわらず、ウクライナのほとんどの産業が打撃を受けるような一連の構造調整が求められていた。ウクライナの経済再建に対するよりよい計画の形成や、厳格度の低い条件の賦課、そして、EU連合条約はウクライナが排他的にEUに属する、つまりロシアとの関係を断ち切ることを意味しないとする言明、これらはいずれも情勢の急激な悪化を防いだであろう。
多くの点において、今回の危機におけるEUの役割は、欧州圏内の分裂や、厳密な戦略的見通しを基に安定した調整を行うことが慢性的に不可能である、あるいは単にそうした見通しがないために不可能であることを反映している。それどころか、EUは、主にポーランドとバルト三国(連合協定はリトアニアがEU議長国であった際にキエフに対して提示された)によって推進されたウクライナに関する新政策に着手したようである。他の全ての加盟国は、この動きに対して起こりうる結果について警戒せず、ロシアとの関係やウクライナ国家の安定に関して重大な危機が起こりつつあったことに気づいた時は、既に遅すぎた。
EU内においては、ドイツの役割は非常に独特である。歴史的に、ドイツは多くの戦略的問題についてロシアとの協力を求めてきた。ゲアハルト・シュレーダーとウラジーミル・プーチンの個人的な友情は、ロシアのヴィボルグからバルト海を経由してドイツのグライフスヴァルトにあるハブまで天然ガスを直接運ぶノルド・ストリームと呼ばれるガスパイプライン建設のための国際的な取引につながった。パイプラインはウクライナを迂回しており、起こりうる地政学的に不安定な事態を効果的に回避できる。そしてそのような事態は時を移さずに起こった。2003年の米国によるイラク侵攻への反対や、ベルリンがいかなる直接関与をも慎重に回避した2011年のリビアへの軍事行動が起こった際に、ドイツはロシアに近い立場をとった。現在の危機においては、ドイツは著しく対決的な姿勢をとるようになり、アンゲラ・メルケルが非外交的にも、プーチンの政治的判断に影響している精神状態を示唆することさえあった。しかし、ウクライナ国家の危機に対するドイツの慌てようは、ベルリンの行動を取り巻く大きな文脈において捉えられるべきである。ドイツは、多大な経済的・人的資本をいまだに保有している国であるが、それでも衰退の傾向にあるように見える。欧州の辿る道筋を描く一般的な「底辺への競争」では、ドイツの経済成長は、(衰退がより急激な)西や南の隣国のそれを凌ぐが、ドイツの人口は1972年以来減少しており、深刻な人口の高齢化と、大量移民による民族的・宗教的な断片化の進行が起こる中で、さらなる大幅縮小が起ころうとしている。
1989年から1991年にかけての社会主義圏の崩壊によって、統一ドイツは、膨大な経済再建と、関連する金融・産業活動への支援と引き換えに、中欧における古くからの勢力範囲への影響を再評価できるようになった。興味深いことに、ウクライナへの米国の直接投資がない中で、ドイツだけがロシアに代わる妥当な再建用資本源だったのかもしれない。しかしながら、ウクライナ、特により産業化され経済的にも重要な東部と南部の地域は、ドイツの従来の権益圏には属していない。その一方で、ドイツは、他の中欧諸国の再建に対する努力によって既に無理をしており、深刻に開発が遅れているルーマニアやブルガリア(2007年からEU加盟国)でのさらなる再建推進を支援することさえも現在はできない。2009-10年の後、ユーロ危機の始まりや、1.2億人以上の人口を有する南欧全体における深刻な景気後退と共に、ドイツのこのような状況は大幅に悪化した。
したがって、ウクライナ危機に対するドイツの慌てようは、国内の長期衰退や、他方面への追加的リソースの投入が不可能なこと(これはまさに現在のドイツの戦略的苦境の特徴となっている)を理由にドイツが直面する数々の困難がある、という文脈おいて捉えられなければならない。もうひとつの主な興味の対象は、国際的危機の管理に関連したロシアの行動に伴う政治的文化の変化に関するものであるが、この評価は別稿にて行うつもりである。
この地政学的危機と同様に、欧州における地政学への回帰は明らかに驚きである。危機に対するドイツ政府のヒステリックな反応は、このような状況でのみ理解できる。ポスト歴史的状況の無期延長を固く信じる現世代のドイツ指導者にとって、欧州において国境に関する論争が起き、軍隊が国境を超えうるという露骨な事実は、(程度は異なるであろうが)不愉快なものである。それは測りがたい次元を持つ不幸である。そして、ドイツと欧州、または欧州連合の将来に関する考え方の全てが間違っているかもしれず、ドイツが長期的に不利な立場から抜け出せないことを示している。クリミアの占拠と編入は、19世紀の政治へ戻ることを示しているのではない。それはむしろ反対に、国際政治を執り行う上での新しい将来の方法を示唆し、そこでは政治の領土に関する側面の台頭が見られるであろう。領土的側面はしばらく重要視されなかったが、政治、特に国際政治の理解において永久に葬り去られた要素ではない。
ウクライナ危機の本質
ウクライナにおける危機が、欧州における1945年以来の最も深刻な地政学的衝突であることは確かである。それは多くの点で、欧州における国家形成時代の初期に始まり、過去5世紀の間に幾度も見られた大陸での一般的な衝突を促してきた典型的な危機に似ている。その傾向はよく知られており、様々なプレーヤーが長期に渡りチェス盤に駒を配置し、異なる争いの勃発地点の間に多数のつながりが発生するというものである(蓄積)。最終的に、局地的な危機の悪化によって、戦略的計画の全体の運命が突然変わることになる(引き金)。こうした類似性は主に、危機の広範な影響や、極端な形で行われる言葉の上の衝突、こうした「賭け」の象徴的価値、関係する国境(特に、ロシア・ウクライナ間国境そしてモルドバ国境)の侵犯のしやすさによるものである。
冷戦中は、(軍隊の展開だけを考えれば当然なのだが、ほぼ間違いなく衝突がより激しかった場所である)欧州大陸で起きた危機は、両陣営において、敵側大国からの非干渉協定があり、国境内に封じ込められた。例としては、ギリシャの内戦(1946-49)、東ドイツ(1953)やハンガリー(1956)での反乱、チェコスロバキアでの危機(1968)などがある。事態の激化が両大国にとって現実的ではなかった中で、核兵器がいつでも使用されうるという認識はもちろんのこと、大規模な軍隊や、展開準備のできている軍事手段、これら全てが危機の拡散に対する外部的制約となっていた。また、冷戦中の様々な危機は、プレーヤーの数も少なく、それらは通常ワシントンやモスクワによって綿密に操られていたか、または根本的に孤立していた。さらに、各危機において、政治的目的は時として達成不可能であったけれども、通常は予め決まっていて、かなり明確であった(迅速なドイツの再統一、1950年代には既に達成されたハンガリーの中立性、また、ソ連の視点からは、共産主義支配の再建)。
これとは反対に、ウクライナ危機は広範な影響をもち、様々な限界点がはっきりしていない。報道のほとんどに見られるこの問題の単純な説明とは裏腹に、ウクライナ人とロシア人の区別は明確ではない。ほとんどのロシア人家庭がウクライナに住む親戚をもち、またその逆も言えるのである。何千万というロシア人苗字がウクライナで使われているのである。彼らの全てが東スラブ民族の子孫なのである。彼らは同じ言語学的流れに属しているのである。彼らのほとんどは正教会に属しているのである。何世紀もの間、彼らは同じ帝国に属していたのである。上述の通り、両国の間の行政上の境界線は、決して実際に国境になるものとは意図されていなかった。ロシアの黒海艦隊のための戦略的拠点としてのクリミアは、モスクワが地中海に直接アクセスすることを可能にする。したがって、現在の危機がシリアで進行中の紛争や、シーア派勢力(ロシアや中国に支援されているイランや、レバノンやシリアやその他の地域のシーア派グループ)と(米国とイスラエルが関与する)サウジアラビア率いるスンニ派連合の間の国境衝突と関連をもつことになる。他の派生的結果として、(それ自体が最大の地政学的懸念を引き起こすのに十分な)欧州におけるエネルギー安全保障の全体的構造に関するものはもちろんのこと、コーカサスとエネルギーのルートに関するものがある。
ウクライナ危機の急速な悪化の可能性も出てきた。これは一方では外国(西側諸国とロシア)による介入の激しさと範囲に起因している。これに加えて、危機前の主要政治家(ヤヌコーヴィチやティモシェンコ)、臨時政府、キエフの抗議行動参加者、ウクライナ西部の武装民兵隊からの過激派グループ(右派セクターやスロボダ)、支配層、ロシアを支持する抗議行動参加者とその武装集団、諜報スパイ、外国外交官といった国内の関係者間の複雑すぎる関係も要因となっている。冷戦時代の典型的な危機とは逆に、今日のウクライナのマグマが沸々とたぎっているような状況においては、ワシントンや、ブリュッセル、ベルリン、モスクワの司令塔に対するこれらのグループの忠誠度など疑わしく思える。
危機脱却の方法は?
残念ながら、現在の危機から脱却する簡単な方法はない。多くの点において、ウクライナ国家の危機は後戻りが不可能である。物理学の一般原理にあるように、あるシステムが過去の状態に戻ることはエントロピーによって防がれる。上述のウクライナ国家を安定させていた様々なバランスの絡み合いが、ヤヌコーヴィチの追放後に失われると、半決定論的な一連の出来事が起こり始めた。国際的な側面においては、(モスクワの視点からして)ロシア国家の重要な権益が危機に瀕していたことを考えると、ロシアは介入せざるをえなかった。このことを予見するのは難しいことではなかった。したがって、キエフやリヴィウや西側諸国の首都において、政治指導者が、予測されるロシアの反応に対処するための十分な方法や戦略を持たずに行動に取り組んだことは注目に値する。
中央集権的な憲法秩序の崩壊は空白をつくりだし、それを各地域勢力が様々な方向に流されながら埋めようとしている。キエフの事態によって、国内の東部と西部の対立に関する政治的和解の可能性が、両陣営の犠牲者数も原因となり、回復不可能なほど損なわれた。危機前の状態に戻ることの不可能性は、ロシアのクリミア編入によって確実なものとなった。このようにして、ロシアはウクライナでの将来の選挙における何百万という潜在的なロシア支持者を失うという事実を強調する評論家もいる。しかしながら、このような考え方は説得力がない。選挙結果がキエフにおける市民動乱によって覆されるといった驚くべきことが起こった。このことは選挙による競い合いを根本的に意味のないものとした。それだけでなく、より一般的に、モスクワの見解では、もはやウクライナ国家はいかなる普通の選挙も運営できないとしているように見える。明らかにロシアはウクライナの多くの地域でそのような選挙を妨害できるのである。簡潔に言えば、ロシアにとっては、ウクライナが短期間で消滅するのであれば、ウクライナ国内での選挙におけるクリミアの重要性は意味のないものである。
上級外交官が表明するようなその他の政治的合意でさえも、現在の文脈においては達成不可能なように思われる。これは、ウクライナをある種の連邦国家に移行させるという考えに対して特に当てはまる。「連邦」という言葉が、18世紀後期における神聖ローマ帝国の場合のように、全く架空のウクライナ(準)主権を意味しない限り、そのような計画はウクライナには適用できない。理由は簡単である。各地域が異なる経済・貿易圏や異なる軍事同盟・安全保障圏に属するといった連邦国家のモデルは存在しないのである。ウクライナの東部地域と西部地域の間の根本的な政治的・経済的相違のため、地方当局により大きな権限を与えることは、同国の最終的な分裂につながるであろう。
ヘンリー・キッシンジャーなどの名だたる人々を含む評論家達は、西側や東側に対して中立国であり続け、両圏の橋渡し役となるべきであるという見解を表明してきた。だが、この意見には深刻な問題がある。ウクライナは、まさに橋としての機能を果たせないがために、分裂しつつあると言える。こうした中道の立場を保つことは、可能な限りウクライナ国家をある程度において保持していたが、一方でウクライナを内部から(経済的・人口的に)破壊している。NATO・EUとロシアの間でウクライナがそのような好ましい役割を担えたのならば、ウクライナの23年間の歴史の中で実現されていたはずである。しかし、それは起こらなかった。今となっては、橋渡し役を担うことや、中道の立場を保つことができる歴史的チャンスは永遠になくなったのである。中立化という問題は特に興味深いものである。その考えによると、ウクライナは、第二次大戦後にフィンランドが歩んだ道を辿るべきとなる。しかしながら、これは不可能である。その役割はフィンランドだからこそ果たせたのである。これは、同国が、小さな均質国家で、政府がうまく機能している比較的に豊かな国であり、冷戦時代の欧州における緊張の対象になることがほとんどないような地政学的地域に位置していたことに起因する。ウクライナは、これらの一つ一つの点においてほぼ正反対の立場にある。
さらには、キエフの国家主義的な政府は、クリミアの「切断」は言うまでもなく、国の中立化どころか連邦化さえも受け入れないであろう。そして、上述の通り、キエフの暫定政府は、多くの地域を統制し、東部・西部における武装集団の拡散を制御するには不安定である。政府が、ある程度の統制を再び行使できるようになるのかは明らかではない。
また、ウクライナの平和的な分割も、もっともらしい解決法とはならないだろう。既存の国境線を変えてはならないという確立された考えがあるために、このような方策に対して国際的な抵抗がある。だが、より重要なことは、ロシア連邦に加わると思われる地域と、陸地に囲まれた残り物となるウクライナの間のどこに境界線を引くのかも確かではないのだ。
問題が純粋で複雑であるために、容易に達成できる論争の和解策がない中で、状況が悪化し続ける可能性は高い。キエフは戦略的な窮地に陥っている。ドンバスを制圧しつつある武装集団に対して行動をとらなければ、他の地域もクリミアの歩んだ道を辿ることになるだろう。暴徒を鎮圧しようとすれば、ロシアの侵略を招くであろう。キエフが後者の行動を採用したようにみえるため、ロシアによるウクライナ東部の侵略や、おそらくそれをはるかに上回る軍事行動が起こりうるだろう。モスクワの動きはキエフには対処できない。上述したクリミアの場合と同じように、ウクライナの軍事機関は分裂する可能性や、軍事衝突が起きた際には一団となってロシア側に寝返る可能性が高いのである。
ロシアによる侵略が起こった場合でさえも、西側が軍事行動で対応するという見込みはない。地上での状況が安定化して初めて、新しい地政学的な取り決めを中心として、何らかの形の政治的合意を考案することができるであろう。もちろん、このような行動に対する国際的な結末があり、それは幾つかの欧州諸国の防衛政策の再設定に関するものとなるであろう。
結論
ウクライナにおける危機は、国家としての、したがって地政学上の独立体としてのウクライナの危機である。上述の通り、独立以来23年間、ウクライナ国家は、国家のあるべき姿という問題に関わる多くの重要な領域において適切に機能してこなかった。世界には準国家や、崩壊しつつある国家、そして崩壊してしまった国家が数多くあるが、ウクライナは、その純粋な意味での地政学的な位置のせいで、高まる国際的緊張を前にしては無傷で存在することが不可能なのである。また今回の危機は、米国とロシアの間に生じた対立や不満の蓄積や階層化の産物でもあり、中東やコーカサス、中央アジアにおける一連のほかの紛争勃発地帯にも関わっているように見える。
状況は違う方向へ展開しえた。米国やEUが1990年代初期、つまりソ連崩壊の直後、同国が最も弱体化していた時からウクライナに対して異なった経済政策をとっていたなら、なおさらそうである。当該地域のための長期的経済戦略や、ドイツに支援された中欧諸国の再建をモデルとしたウクライナのための産業計画が皆無であったことは、経済的・政治的状況の悪循環につながってきた。民主主義推進の視点においてさえも、経済的繁栄の欠如や、富の分布の極端な分極化のもとで民主主義が存在することは考えられない。更に一般的に、1991年の後に西側がロシアを含めた欧州計画を即座に放棄したことは、国際政治における誤りとみなされるべきであると言える。今日のウクライナのマグマが沸々とたぎっているような状況においては、ある程度の統制を行使する試みは、多くの不確定要素を伴う、費用のかかる作業となるであろう。
ウクライナの分裂が地政学的緊張の結果として起こる一方で、それはまたロシア復活の副産物を表している。ロシアの政治的事業が帝国的なものであることに疑いの余地はほぼ皆無だ。ロシアは、歴史的にもそうであったように一帝国として、いやむしろ一帝国としてのみ存在しているのであり、そうでなければ同国は存在しえないであろう。ロシア指導部の抱く野心的なロシアの未来像は、それが形成され運営される歴史的状況を前提とすると唯一の選択肢かもしれない一方で、(国際法を含む)国際的秩序の保持や過度の帝国的拡大という観点において、多大な危険性を伴いうる。それには、世界に対する危険性だけでなく、ロシア自体に対する危険性も含まれているのである。