二つの恐怖 − テロ排除と寛容、両立を

東京大学法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2015/1/21

EPA=時事

2015年1月7日、フランスの週刊新聞シャルリー・エブドに暴漢が乱入して12人を射殺してからおよそ2週間、その余波が止まない。そこには二つの流れを見ることができるだろう。

第一の流れは、言論の自由を守れという国際的連帯である。暴徒の襲撃直後から欧米諸国では「私はシャルリー」という言葉がインターネットで拡散し、プラカードとなって数多くの集会で掲げられた。事件後週末の集会ではフランスのオランド大統領はもちろん、ドイツのメルケル首相など各国首脳が集まり、無法な暴力を前にして言論の自由を守る必要を訴えた。

第二の流れはイスラム圏を中心とした反発である。シャルリー・エブドの最新号がムハンマドの風刺画を表紙にしたことを直接の引き金として、抗議行動がパキスタンやアルジェリアに広がり、ニジェールでは教会が焼き打ちにされた。その抗議の主体は特定のイスラム過激派というよりイスラム諸国の一般民衆であり、イスラム教を誹謗する表現に対する激しい反発を認めることができる。

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このような二つの流れの背後には、今回の事件よりも前から広がっていたさらに二つの流れがある。その第一は、イスラム過激派によるテロの拡大である。イラクからシリアにかけて勢力を広げたイスラム国はイスラム圏ばかりでなく欧米諸国からも参加者を集め、ナイジェリア北部を中心とした地域ではボコ・ハラムによる殺戮も繰り返し伝えられている。シャルリー・エブドの襲撃は、いま世界各地で再燃しているイスラム過激派の数多くの活動の一つとしてみるべきものだろう。

もう一つの流れは、欧米社会における移民排斥、特にイスラム教徒の移民への制限を求める動きである。

既にフランスでは右派政党国民戦線がフランスへの移民、ことに北アフリカからのイスラム系移民の制限を主張してきたが、2代目党首マリーヌ・ルペンを迎えて勢力を拡大し、2014年の欧州議会選挙ではフランスの得票の25%近くを獲得した。移民制限はオランダやデンマークにも及び、移民制限の声が弱かったドイツでさえ、西洋のイスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人(PEGIDA)と称する団体がドレスデンなどで大規模な政治集会を繰り返している。アメリカでは、テレビ局フォックス・ニュースのコメンテーターが、イギリスのバーミンガムはもはや丸ごとイスラムの町になった、イスラム教徒でなければ入ることができないところだなどという発言を行うに至っている。

イスラム地域ではイスラムを掲げる急進武装勢力が勢力を伸ばし、ヨーロッパではこれまでの多文化主義を排して移民を制限する運動が高揚する。荒れた状況というほかはないが、これをどう考えればよいだろうか。

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まず、イスラム過激派の暴力は許されない。イスラム国やアルカイダのような団体はイスラム教徒を含む一般市民の大量虐殺を辞さない集団である。このような団体や、それに同調する人々の活動を規制するために暴力を用いることを私は支持する。だが、シャルリー・エブドの掲載する風刺画を支持することもできない。他の宗教を嘲るような言葉や絵画に価値を認めることはできないからだ。私は暴力によるシャルリー・エブドの排除に反対だが、それは暴力をもって言論を排することが間違いだからであって、すべての言論が正当であるという意味ではない。

ここでは二つの恐怖が向かい合っている。ヨーロッパではイスラム過激派ばかりでなくイスラム教徒一般によってヨーロッパ社会の安全が脅かされているという恐怖が生まれた。イスラム諸国では欧米諸国がイスラム教徒から尊厳を奪い、排除を進めているという恐怖が広がっている。恐怖が昂進すれば、それぞれの社会で相手に対する不寛容と排除が広がり、政治的急進派が台頭する。イスラム教に反する行いに対して大量殺戮で応じ、あるいは数の限られた過激派とイスラム教徒一般を区別せずまるごと排斥する行動が、そこから生まれる。

かつて、ラブレーの翻訳で知られるフランス文学者の渡辺一夫は、寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきかと問いかけた。幾重にも層の重なる渡辺の論考を単純化することは適切ではないが、いま世界に広がるのは他者に対する不寛容が他者の存在そのものの排除を招くこと、いわば他者性の放棄と政治の暴力化の危険である。

不寛容を前にしても可能な限り寛容を保たなければ他者との共存を実現することはできない。テロは排除しなければならないからこそ、排除する側は文化と価値の多元性を受け入れ、維持する必要があると私は考える。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2015年1月20日に掲載されたものです。