国境を閉ざす流れの中で − 各国共通の責任考える

東京大学政策ビジョン研究センター副センター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2017/3/28

Photo: K.yamashita

国際関係におけるリベラリズムでは、国境の果たす役割を弱め、国境を相対化することが望ましいと考えられてきた。そこには、自由貿易を擁護し、国家による経済活動への介入に批判的な経済的リベラリズムと、市民社会の合意を国家による権力行使の前提とし、自由を保障する政治制度の拡大が国際平和にも寄与すると考える政治的リベラリズムという、二つの考え方の反映を認めることができる。国境を守るだけではいけない、各国は国境を超えて協力しなければならないという呼びかけの前提として国際協力への期待も読み込むことができるだろう。

だが、イギリスの国民投票ではEU(欧州連合)離脱を求める声が多数を占めた。アメリカでは、移民規制の強化とシリア難民の受け入れの中止を訴えたトランプ氏が大統領に当選した。ヨーロッパではシリアやリビアなどから難民を受け入れることに反対が強まり、移民規制を主張する政党がフランスをはじめとする各国で支持を拡大している。

このような現実を前にすると、世界各国は、国境を超えるどころか、国境を閉ざす試みをはじめたのではないかという思いに駆られてしまう。

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そんなときに思い出すのが、一昨年に逝去したアメリカの政治学者、スタンリー・ホフマンのことだ。

ホフマンは、国際政治のなかで普遍的価値や倫理の実現を求めるリベラルであったが、同時に国際政治が権力関係によって支配される現実を熟知するリアリストでもあった。その代表的な著作「国境を超える義務」(最上敏樹氏による邦訳がある)では、世界各国が自国の利益ばかりを優先する国際政治のなかで、国境を横断した価値や倫理を実現することは可能なのかが議論されていた。

この本の原型となった連続講演は、人権外交を掲げるカーター政権が日ましに弱まるなかで行われた。まさに価値や倫理の追究が絵空事にしか映らない時代にあって、それでもなお国境を超える価値と制度の実現を追い求めるホフマンの粘り強い思考に、大学院生だった私は魅了された。

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ホフマンの著作が刊行されてから、36年になる。その間に東西冷戦は終結し、欧米諸国を世界の中核として、経済における資本主義と政治における民主主義が世界に拡大する自由世界が誕生したように見えた。そのなかでは、国家間の権力闘争と各国共通の価値とのバランスに腐心するホフマンの議論が古くさく映ることもあった。

冷戦終結とともに生まれた自由世界の幻想は、しかし、長続きはしなかった。確かに貿易の自由も資本移動に対する規制緩和も著しく進んだものの、それが持続的な経済成長をもたらすことはなかった。2008年の世界金融危機の後、新興経済圏の経済は停滞を続け、先進国では所得格差の拡大と中間層の緩やかな没落が始まる。貿易自由化や市場統合は産業の空洞化と雇用の喪失を生み出すのではないか。景気が低迷するなかで、経済グローバル化に対する反発が高まっていった。

移民や難民の受け入れへの批判も強まった。好況のもとでは、移民受け入れによって労働力を確保し、少子高齢化の影響を緩和することが期待できる。だが経済停滞のもとでは、もとからその土地に住む人々たちの雇用機会が、移民として移り住んだ人々によって奪われる可能性が生まれる。国内治安に対する不安が、移民と難民の受け入れをさらに困難なものにしてしまった。ヨーロッパ諸国やアメリカでテロ事件が相次ぐなか、移民や難民のなかにはテロリストが含まれている、移民や難民は国内社会から雇用ばかりでなく治安も奪ってしまうという声が高まっていった。

冷戦終結直後の欧米諸国に見られたような国際主義と多文化主義は、経済停滞のもとで起こった反グローバリズムと、それに追い打ちをかけるかのようなテロへの恐怖によって後退してしまった。

ここに見られるのは価値と規範を共有する各国が構成する自由世界の姿ではない。その代わりに見られるのは、各国が領土と国民を支配し、他国による干渉を排除するという、国民国家によって構成される世界のイメージである。イギリスの国民投票もアメリカの大統領選挙も、国境を超えることより国境を閉ざし守ることを優先する政治の流れのなかで理解することができる。

だが、価値と規範を共有する自由世界が幻想であるとすれば、国民国家に分裂した世界が均衡するという期待も幻想に過ぎない。各国が国境を超えて共有する責任をどのように組み立てることができるのか。36年前にホフマンが掲げた問いを改めて考える必要があるだろう。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2017年3月15日に掲載されたものです。