アフガンの米兵銃乱射 − 戦争が生んだ醜い暴力

法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2012/5/18

アフガニスタンに多国籍軍が軍事介入して10年を超え、オバマ政権が米軍撤退を準備するなかで、ひとつの事件が起こった。

3月11日、南部カンダハル州の民家に米軍兵士が押し入り、非戦闘員に向かって銃を乱射した。殺害された16人のなかには多くの子どもが含まれていた。

アフガニスタンの反発は厳しかった。これまでにもコーラン焼却から死体への放尿に至るまで、アフガニスタンの人々から尊厳を奪うかのような行為に対し、数多くの暴動が繰り返された。今回の事件では容疑者が直ちにアメリカに移送され、アフガニスタン国内では裁判ができなくなったため、アメリカへの怒りがさらに強まった。

だがアメリカのメディアによる報道は、子煩悩な2児の親がなぜ虐殺に走ったのかという一点に焦点が置かれていた。よほどひどい経験をしたのだろう、戦争で人間が変わってしまったのだという判断だ。容疑者ロバート・ベイルズ2等軍曹が入隊前から多くの負債を抱え、家を手放す直前だったことなどがその後に判明するが、すでに事件への関心は衰えていた。

アフガニスタンの反応は犠牲となったアフガン人に関心が集中した。アメリカの報道は米兵の内面ばかりに目を向け、殺された人々がほとんど登場しないばかりか、アフガニスタン介入の是非を問う報道も少ない。同じ事件が、見る側によって違うものとして映るわけだ。

既視感に襲われるのは私だけではないだろう。沖縄の米軍基地でも米軍兵士による暴力事件が繰り返された。日本の報道が犠牲者に集中する一方、アメリカでは日本人の犠牲者について伝えられることは少なかった。長期間日本の司法から米兵容疑者が外されてきたこともアフガニスタンと似ている。アフガン国民の受難には沖縄の経験と重なる点が多い。

だが、日本がアメリカの立場から無縁なわけでもない。第2次世界大戦でも、故郷では好青年や子煩悩の父である人が戦場で酸鼻な暴力を繰り広げる事件が繰り返された。犠牲者から見れば日本兵はとても人間ではないもののように映るが、日本の国民は、そのように兵士を突き放して見ることができない。戦争で人間が変わったのだという声はまだ良心的な方で、虐殺などとは言いがかりだという反発が繰り返された。日本の経験のなかには、アフガニスタンにおけるアメリカの立場と重なるものも存在する。

故郷では考えることのできないような非情な行動を戦場で行う人間を作り出すのが戦争の本質である。戦争が人間を変えてしまうというのであれば、その人間の行った暴力から目を背けることも許されない。今回の米兵の行為が上官の指令によって行われたと解釈する余地はないが、この兵士がアメリカ国内に留まっていたならばアフガニスタンの人々も殺されなかった。今回の発砲事件は、戦争全体の不条理のなかで捉えなければならない。

すでにアフガニスタンにおける米軍は解放者としての支持を失い、いわば植民地統治に類する異民族支配としてアフガン国民とカルザイ大統領から早期退場を求められている。そして米軍は撤退するだろう。タリバーンと交渉を進めながら緩やかに退くという道は閉ざされようとしているが、地元の支持を失った統治を 続けることが難しく、アメリカ国内世論も早期撤兵を求めている以上、他の選択は考えられない。

では、あの戦争は何だったのだろう。タリバーン政権は倒したが、長期駐留のなかでタリバーンの影響力も復活した。日本の国際協力事業団やNGOを含む数多くの団体が復興支援を行ったが、治安悪化とともに活動が難しくなった。介入当初は多国籍軍を歓迎したアフガン国民も、いまではアメリカ政府への不信を強めている。長期の戦争によって、米軍兵士も深い傷を負ってしまった。

私は、戦争をすべて否定すれば解決になるとは思わない。戦争の否定が自国の関与の否定だけを指すのであれば、国外の暴力と不正を見過ごす危険があるからだ。だが、他の手段が乏しいことを理由として戦争に訴えるなら、今回の発砲事件のような醜い暴力が生まれる可能性がある。戦争のすべてを否定できないからこそ、要らない戦争は絶対にあってはならない。

だからこそ、腑に落ちないことがある。イランの核開発疑惑を前にして、軍事行動は避けられないとする議論がアメリカで広がっている。共和党の大統領候補は競い合うようにオバマ政権の軟弱を非難し、即時空爆を求める候補もあった。また同じ過ちが繰り返されるのだろうか。要らない戦争を戦い、多くの犠牲を生みだしてしまうのだろうか。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2012年3月27日に掲載されたものです。