尖閣巡る日中関係 − 政経独立、頼ってよいか
2012/11/14
日本政府による尖閣諸島国有化と中国各地のデモと暴動からひと月あまり過ぎたが、日中関係の緊張は厳しい。日中復交40周年に関連するイベントの多くは取りやめとなり、国連総会では中国外相が尖閣諸島は日本に盗まれたと演説を行った。日中両政府の対立が収束する展望は見えない。
だが、日中両政府が尖閣諸島の領有権について争う一方、両国の間の貿易はこれまで拡大を続けてきた。いうまでもなく日本にとって中国は最大の貿易相手国であり、中国から見ても(かつてより相対的に減ったとはいえ)日本への輸出は輸出総額の8%近くに及んでいる。これまでの日中関係では、政治的対立の一方で経済交易は保たれてきた。
それでは、経済関係の強化と政治的・軍事的対立との間にはどのような関係があるのだろうか。ここでは経済と安全保障の交錯について二つの議論を立てることができる。
第1の議論は、両国が貿易への依存を深める状況のもとでは軍事紛争が生まれる可能性が低い、という観測である。戦争になれば貿易関係を保つことは期待できないから、双方ともに経済的打撃が大きい。ここから、貿易が拡大すれば開戦の合理性が減少するという議論が生まれる。
学校で国際政治の授業を受けた人ならおなじみのように、これはアダム・スミスやコブデンの昔から現在の相互依存論まで継受されてきた、国際政治における経済的リベラリズムの議論そのものであるといってよい。実際、第2次世界大戦後の世界を見る限り、先進工業国の間で貿易が拡大する一方、世界戦争のような大規模な軍事衝突は起こっていない。この議論をそのまま当てはめれば、日中関係が緊張したところで戦争の危険はないという結論になるはずだ。
だが、経済的リベラリズムが妥当するとは限らない。これも国際政治の授業でおなじみの事例であるが、第1次世界大戦直前の西欧諸国の間にはかつてない貿易の拡大が見られた。どれほど互いに貿易依存度が増えていても、フランス・ドイツ、さらにイギリス・ドイツの戦争を防ぐ役には立たなかった。例外ひとつで理論が打破されたといえないとしても、第1次大戦を説明できない理論に限界があることは明らかだろう。貿易依存度の上昇が戦争に訴えるコストを引き上げるのは間違いないとしても、コストが高いからと言って戦争が防がれるとは限らないのである。
第2の議論は、貿易の拡大と政治的関係との間の因果関係は小さいと見るものである。実際、東アジアにおける通商と政治紛争との間には、経済的リベラリズムの想定よりもはるかに強い独立性を認めることができる。小泉首相の靖国神社参拝をめぐって日中関係の冷え込んだ2005年にも日中貿易は増加していた。
私は、経済的リベラリズムよりも、この政経独立論の方が東アジア国際関係を的確に捉えていると考える。少なくとも今回の紛争以前の日中関係に関する限り、政治的対立が経済関係を損なうことは少なかった。だが、そこには落とし穴がある。
政治と経済は独立性が高いと両国が考えるとき、政治的妥協を行うインセンティブは低い。領土が国益や核心的利益として捉えられる状況の下では、相手に妥協することは考えにくい。妥協しなくても経済的損害を受けないのであればなおさらだろう。
日本政府は、過去の例から見て領土問題に対して中国に譲らない方針を堅持しても日中貿易への影響は乏しいと予測するかも知れない。ここで中国側も同様の想定を立てた場合、双方ともに経済関係への悪影響を度外視して強硬方針を保持することになる。
ここから生まれる帰結は、安定した両国関係の生み出す利益と比較すればはるかに小さい争点をめぐって当事者が妥協を拒み、一歩も引こうとしない状況である。私は中国政府の外洋戦略は国際関係の安定にとって望ましくない、阻むべき政策であると考えるが、それは軍事演習をはじめとする国際的連携の下の威嚇によって十分対処可能な状況でもあると考える。そして、既に尖閣諸島を実効支配している日本側が強気の対応に終始することは、緊張を拡大し、日本の経済的利益をも損なう結果をもたらすことを懸念する。
これまでの日中関係において政治的緊張のもとでも貿易が拡大したことは事実である。だが、その状況が今後とも続くとは限らない。貿易などのために国家主権を犠牲にしてよいのかと叫ぶ人もいるだろう。だが、尖閣諸島の領有権のために日中両国の間で恒常的緊張が続くことが本当に望ましいのか、改めて考える必要があるだろう。
この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2012年10月16日に掲載されたものです。