憲法改正 − 歴史観、見直せば孤立

法学政治学研究科教授
藤原帰一

2013/1/7

Photo by AP/AFLO

総選挙は民主党への不信任投票だった。獲得した議席は57。これは公示前議席の4分の1、前回選挙直後と比べれば2割にも満たず、55年体制の下で自民党のおよそ半分程度で推移したかつての社会党さえ下回る議席である。もはや民主党は二大政党のひとつではない。

では、新政権はどのようなものになるのか。中国・韓国ばかりか欧米諸国のメディアでも、安倍晋三新首相の下の自民党政権はこれまでになく日本の政治を右傾化させるという観測が流れている。さて、そうなるのか。ここで問題となるのは、何が右傾化にあたるのか、である。

社民党や共産党の立場から見れば、集団的自衛権や憲法改正は、それだけで右傾化と見なされる。だが、日米安保条約のもとで集団的自衛権を認めなければ、同盟国として実効的活動を行うことはできない。安保条約も自衛隊もすべて憲法違反として排除した場合、日本国民の安全をどう実現するのか、また海外の紛争地域における平和構築のために日本は何をするのかという課題が残される。

憲法9条を根拠とする平和主義は、国際紛争に対する日本の関与を排除する、事実上の孤立主義としての役割を果たしてきた。軍事力の使用に当たって慎重な判断が求められるのは当然であるが、国際関係において軍事的威嚇が行われ、また日本もその威嚇に頼って安全を図る現実がある以上、国際関係における力の行使をすべて退けることは賢明ではない。

翻ってみれば、憲法改正の阻止は、選挙によって政権を獲得する可能性の乏しい野党勢力が、政権は獲得できなくても憲法改正に必要となる3分の2の議席は自民党に与えないという目標を追い求めてきた帰結であった。そして戦力不保持を定めた憲法9条第2項が現実に適用されたとはいえない。もし憲法改正が9条2項の削除に留まるのなら、それによって日本の対外政策が大きく変わることにはならない。

念のためにいえば、私は憲法改正が必要であるとは考えない。安保条約に基づいた米国との軍事協力も、国連平和維持活動に自衛隊が加わることも、現行憲法の下で可能であると考える。しかし、憲法改正はすべて右傾化であるという判断には賛成できない。問題は憲法の原則ではなく、自衛隊の行動によって国際紛争が打開されるのか激化するのかにあるからだ。

だが、問題はその先にある。6年前に首相を務めた際に、安倍氏は「戦後レジームからの脱却」を唱えていた。その意味は必ずしも明確ではないが、そこで求められていたのが戦力不保持の否定だけでないことは確実である。

1990年代以後、日本会議などを典型として、連合国占領下でつくられた日本の国家体制の見直しを目指す政治運動が広がった。そこでは日本の伝統に基づく憲法の制定が呼びかけられるとともに、日中戦争と第2次世界大戦を日本の侵略として捉える見方が自虐史観として厳しく批判されていた。「戦後レジームからの脱却」という言葉に、自虐史観の脱却と、日本国民の伝統と誇りの復活が含まれていると解しても不当には当たらないだろう。

私は、このような歴史の見直しには賛成できない。日本国憲法はもちろん連合国による占領の下で定められた憲法であるが、そこには侵略戦争を行った日本が軍国主義と異なる政治体制をつくりあげるという、一種の国際公約としての意味があった。そして、占領下でつくられ、数多くの問題を含むにもかかわらず、日本国民は現行憲法を60年以上にわたって支えてきた。第2次世界大戦を引き起こした日本とは異なる政治社会をつくるという目標を国民が受け入れてきたからである。

戦後レジームからの脱却が歴史の見直しを含むのであれば、右傾化と評されても仕方がない。従軍慰安婦に関する河野談話を撤回し、南京大虐殺はなかったと主張し、歴史見直しの流れの中で憲法を改正するならば、中国・韓国ばかりでなく、欧米諸国から日本が厳しく批判されることは避けられないだろう。そのような日本軍国主義の事実上の名誉復活は、第2次世界大戦後の世界の基礎をなしてきた国際社会の基本的合意に背を向ける行動にほかならないからである。

私は、日本国民が歴史の見直しを求めて自民党に、あるいは石原慎太郎氏を代表とする維新の会に投票したとは思わない。だが、有権者の意思から離れ、新政権の下で歴史の見直しの一環として新憲法が制定される可能性は現実のものである。左翼が唱えてきた国内消費用の平和主義から一転して、今度は右翼の歴史観と自己愛のなかに日本が引きこもってしまう。それだけは避けなければならない。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2012年12月25日に掲載されたものです。