米国官僚の霞が関派遣 − 緊張の時代に信頼育む

東京大学法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2013/3/15

Photo by Rhoma.K

米国政府のお金で、米国の公務員が日本の政府で1年働く。そんな不思議なプログラムがある。マンスフィールド財団という米国の機関による、マンスフィールド・フェローシップである。

給与は米国政府が支出するが、勤めている機関が出向中の給与を負担しない場合は(議会の予算を受けて)マンスフィールド財団が支給する。日本政府における配属は本人の希望と日本側部局の意思によって決まる。フェローに応募する資格はきわめて広く、米国連邦政府に2年以上続けて働いている米国国民なら誰でも応募できるのだから、年齢・性別はもちろん、専門分野にも限定はなく、日本語能力の有無も問われない。

日本語がまるで初めての人であっても、日本の公務員と同様に議論に加わり書類を作成する能力を、たった1年で身につけなければならない。この目標を実現すべく、フェローに選ばれたら最初の1年は徹底した語学研修を受けなければならない。

米国での研修を終えた後は日本に向かい、ホームステイによって日本での暮らしを経験した後、希望する日本官庁の配属先で、日本の公務員に交じって仕事をする。インターンに近い立場だが、本国で既にプロとして実績を上げた人たちばかりだし、なかには年齢が50を超える人もいる。大学を出たばかりの若者とはだいぶ違うといっていいだろう。

手の内を明かして言えば、私は第2回のフェローシップ以後ほぼ毎年、このフェローシップに関わってきた。フェロー選考のためにワシントンで行われるインタビューに参加し、日本では派遣されてきたフェローとの懇談を行う。私は、米国はもちろん(大学を別とすれば)日本の官庁にだって勤めた経験はないので、フェローひとりひとりにお目にかかってお話を聞くのがいつも楽しみだった。

このフェローシップは、これまで20年近く続いてきた。どうしてこのプログラムが発足したのだろう。

時代は、米ソ冷戦の終結を受けた1990年代初め。日本経済の急成長とともに日米関係は貿易問題で緊張を繰り返していた。紛争が繰り返される背後には、米国政府のなかに日本について詳しい人が乏しいという問題があるのではないか。そう考えたマンスフィールド元駐日大使は、当時のモンデール駐日大使などの賛同も得て、米国の公務員に日本語の特訓を与え、日本政府で働かせるという計画を考えた。

最初にこの計画のことを聞いたとき、そんなの無理だ、と私は思った。日本から見れば、これは米国政府のスパイを日本の官庁に迎え入れ、情報を流出させる陰謀のようなもの。米国政府にとっては、日本専門家と言えば聞こえはいいが、米国の国益よりも日本の利益を重視する日本の代弁者を政府が抱え込むことになる。計画の趣旨には賛同できるが、日米の間に開いた距離の大きさを軽視しているのではないか、長続きしないだろうと思った。

今となっては、不明を恥じるほかはない。20年近くもの間、米国政府は毎年4、5人の中堅官僚を日本に派遣し、日本政府は彼らを職場の仲間として受け入れ、その成果として、日米両国の信頼関係を支える数多くの人々がここから生み出されたからだ。

たとえば、危機管理の専門家、レオ・ボスナー氏。フェローに採用された時点で既にキャリアを積んだ方だったけれど、フェローシップを終えた後も日本関係の職務を続け、在日中に東日本大震災を経験すると救援活動に関わり、その後も日本側関係者と協力しながら災害復旧活動を続けている。

ボスナー氏のほかにも、財務省や国務省でマンスフィールド・フェローに出会うことは珍しくない。もちろん日本の代弁者でも、アメリカのスパイでもない。いずれも、日本を知るために2年を費やし、その経験をもとに日米の円滑な意思疎通を図る上で欠かせない存在となった人たちだ。

国際緊張の激しいとき、相手の立場から状況を見る能力は軽視されやすい。だが、自国の主張を押しつけるだけでは相互信頼が生まれるはずもない。マンスフィールド・フェローシップは、日米のカナメとなる人々を育ててきた。米国公務員を受け入れることができるほど日本が開かれた社会だったことも成功の一因だろう。

両方の視点から国際関係を見ることのできる人々を育てなければ、小さな国際的緊張がエスカレートする危険が生まれる。連邦予算削減の影響を受けて、マンスフィールド・フェローシップは大幅に縮小されてしまったが、外交関係の安定は人材養成に支えられていることを銘記すべきだろう。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2013年1月22日に掲載されたものです。