揺らぐ安全保障 − 戦わない米国の限界

東京大学法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2013/5/1

AFP=時事

今から10年前の2003年3月19日、米軍を主体とする多国籍軍がイラク攻撃を開始した。このイラク戦争は、戦争に積極的なアメリカから消極的なアメリカへの転機となった。

01年に発足したブッシュ政権には、ラムズフェルド国防長官やチェイニー副大統領のように、同盟国の支持が乏しくてもアメリカは軍事行動に訴えるべきだと考える人たちがいた。9月11日の同時多発テロ事件はラムズフェルドやチェイニーの発言力を強め、イラクを攻撃する伏線となった。

イラク戦争についてアメリカ政府の掲げた公式の理由は、イラクが大量破壊兵器を隠し持っているというものだったが、実際の目的はフセイン政権の排除にあった。湾岸戦争を戦った際にフセイン政権を延命させた誤りを正してフセイン政権を倒す、体制転覆(レジームチェンジ)の戦争である。

フセイン政権は確かに倒されたが、その後のイラクに生まれたのはシーア派を主体とする政権だった。フセイン政権の下では稀であった政治テロも、いまでは日常のように繰り返されている。イラク戦争によってイラクが以前よりも安全になったとは言えない。

戦争の犠牲は大きかった。米軍の死者だけでも4500人以上、一般市民の犠牲者は13万人を超えると推定されている。これほどの犠牲を正当化するような成果がイラク戦争によってもたらされたと考えることはできない。

この混乱を引き継いだオバマ政権は、アフガニスタンとイラクからの撤兵を急いだ。撤兵が進むなかでアラブの春が起こり、リビアでは反政府勢力への軍事弾圧が展開したが、仏・英の呼びかけにもかかわらず、オバマ政権はリビア介入に消極的姿勢を崩さなかった。ヨーロッパ諸国の批判を押し切ったイラク戦争とは反対に、ヨーロッパ諸国よりも戦争に消極的なアメリカという新しい構図が生まれた。

戦うアメリカから戦わないアメリカへの転換は初めてのものではない。ベトナム戦争での事実上の敗戦を受けて生まれたカーター政権は、人権外交という旗印を掲げながら、イランにおける大使館人質事件やニカラグアにおけるサンディニスタ革命を前にしても、直接の軍事介入を手控えた。大規模な軍事介入の後で軍事介入の回避に転じた点において、オバマ政権の対外政策にはカーター政権と似た特徴を認めることができるだろう。

戦わないアメリカへの転換は、日本にどのような影響をもたらすのだろうか。過去半世紀の間、日本は戦うアメリカに頼り続けてきた。アメリカの核抑止力と実戦経験に頼ることで、日本が過大な兵力を抱え、あるいは実戦に参加することなく平和を享受できるという選択である。

この政策には限界がある。まず、どの戦争を戦うかという選択はアメリカ政府しか行うことができない。イラクよりも北朝鮮のほうが日本にとって脅威であると訴えたところで、戦争するのが米軍である限り、日本政府の影響力は乏しい。だが、自分でコントロールすることはできなくても、番犬が獰猛ならば安全を脅かされることは少ない。アメリカ頼みの安全保障にはそれなりの合理性もあった。

とはいえ、アメリカが軍事行動に消極的になれば、この選択は限界に直面する。イラク戦争から10年経った世界がいま向き合うのはその状態、すなわちアメリカが戦争を行う意思が乏しいなかでどのように安全を確保するのかという課題である。

念のために確認しておけば、イラク戦争は要らない戦争だった。要らない戦争に多大の兵力を投入すれば、他の地域において軍事展開する力を削がれ、抑止力が低下することは避けられない。だが、アメリカが戦争に消極的になれば世界が平和になるわけでもなく、逆に米軍が介入しない可能性を期待した好戦的行動を招く可能性がある。不介入路線を保持したカーター政権の下でソ連はアフガニスタン侵略を開始し、カーター政権の対外政策が一転するきっかけとなった。いま北朝鮮、イラン、あるいは中国によって軍事行動が行われたなら、同じような転換が起こるだろう。

ではどうすべきか。イラク戦争の事例が示すように、どれほどの軍事大国であっても、一国の兵力によって軍事介入を続けることは難しい。その困難を打開するために必要なのは、安全保障における国際協力である。多国間の共同行動に基づいた安全保障を準備することによって、単独行動のリスクを回避しつつ、多国間協力に根ざした抑止によって国際紛争の激化を未然に防止するのである。好戦的なアメリカは危ういが、戦争をためらうアメリカも危うい。一国に頼らない安全保障を構想することができるのか、いま問われているのはその一点である。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2013年3月19日に掲載されたものです。