シリア対応 − 「攻撃より外交」の意味
2013/9/24
シリアへの対応が揺れ動いている。英国下院の否決を契機として英米両政府の計画する軍事攻撃が後退し、米ロはシリア政府に化学兵器の提供を求める案に合意した。攻撃から外交への転換はなぜ起こったのか。外交による問題解決は可能なのか。状況を整理してみよう。
今年8月21日に化学兵器使用の疑われる事件がシリアで起こった。シリア政府が化学兵器を使用すれば一線を越えたことになると昨年夏にオバマ大統領は述べており、その一線を越えたという判断が攻撃計画の背景となった。だが、化学兵器の使用は立証できても政府と反政府勢力のどちらが使ったのかを明らかにすることは難しい。ミサイルで空爆を加えてもアサド政権の行動が変わる保証はない。制裁としての空爆には実効性が乏しく、英国下院が政府提案を否決する一因となった。
政府の求める戦争を議会が否決することは稀である。米国下院も軍事攻撃を否決する公算が大きく、オバマ大統領が攻撃から外交に軸足を動かす原因の一つとなった。英米両国で行政と立法の関係を変える事件が起こったのである。
英米議会の抵抗の背後にはイラク戦争の経験がある。だが、シリア情勢は2003年のイラクとは違う。
戦争直前のイラクでは内戦はなく、化学兵器の使用も過去のことだった。現在のシリアでは、2年あまりの内戦によって、国連によれば全土家屋の3分の1が破壊され、住居を失った人々が600万人、難民も200万人に上ると推定されている。放置すればさらに多くの人々の生命が失われ、反政府勢力の急進化も避けられない。イラクと異なり、シリアでは人道的災害が現実に発生していると考えるほかはない。
問題は、人道的災害を前に何をすべきかという点にある。東西冷戦終結後、人道的災害には多国による軍事介入が必要だとの議論が広く行われ、国連でも「保護する責任」という言葉のもとに人道的介入の条件が議論された。シリア攻撃計画はその延長のなかでとらえることができる。
人道的介入が求められる一方、介入する側の条件については議論が乏しかった。冷戦終結から20年を経て、国連安保理の決定に基づく紛争地域への軍事介入はむしろ減っている。ユーゴ介入、アフガニスタン介入、さらにイラク戦争、どの事例も国連決議で正当化しているが、安保理の決議に基づく平和維持活動ではない。
それでも構わない、という声もあるだろう。無法な暴力を前にするとき、求められるのは迅速な軍事力の行使であり、国際的な合法性は第一の要請ではない。そんな判断が国際機構の決定手続きを横に置いた軍事介入を支えていた。
しかし、国際機構の裏付けを持たない軍事攻撃は軍事大国による侵略と選ぶところがない。そこでは大国以外の各国政府の意思が表明される機会は乏しく、「国際社会」が「力の支配」と同じ意味になってしまう。大国国内の議会や世論が関わる機会も少ない。軍事大国への無条件の承認が人道的介入を支えるという逆説がここにある。
その流れが変わった。
ロシアや中国ばかりでなくドイツやイタリアをはじめとした欧州連合(EU)諸国も、英仏の求めたシリア攻撃に懐疑的な立場を表明した。そこにはシリア攻撃の効果に対する疑いに加え、軍事大国の一方的な行動を追認することへの警戒をうかがうことができる。イラク戦争を始めとする過去の軍事介入で軍事大国の政治指導者に与えられた白紙委任が見直されようとしている。
化学兵器の申告をシリア政府に求めるという米ロ両国の合意はその背景のもとで結ばれた。だが、化学兵器の使用を阻んでもシリアの人道的災害は続いてしまう。
ここでの課題は、何よりもシリア国民の安全を、最小限度の軍事関与によってどう実現できるのかという点にある。政府による暴力的な弾圧のすべてを阻止することが難しいとしても、せめて難民の安全を図ることはできるはずだ。そして難民支援の一環として、国連安保理の決定に基づいて地上軍を派遣することは、ミサイルによる空爆よりは具体的な成果を導く可能性が高いだろう。
軍事大国が「国際社会」を代行して得られる安定は思いのほか脆いものに過ぎない。だが、その教訓に学んで軍事力の使用を放棄するだけではシリアの荒廃を打開できない。化学兵器の撤去に加え、各国政府、さらに各国国民の承認に基づき、紛争地域の住民が少しでも安全となる具体的な対応を図らなければならない。
この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2013年9月18日に掲載されたものです。