イリベラル・デモクラシー − 権力制限の排除広がる

東京大学政策ビジョン研究センターセンター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2018/8/17

Photo: K.yamashita

いま、あるいらだちとともにこの文章を書いている。政治権力の担い手が普通選挙によって選ばれながら、その政治権力が国民の手から離れてしまったのではないか、といういらだちである。

民主主義が実現していないから、ではない。もとより民主主義とは国民が政治権力の担い手であるという理念のことであり、公正な普通選挙による政治権力者の選任は、その理念を活(い)かすうえで最も適切な制度と考えられている。そこに異論はない。

さらに民主主義はただの理念ではなく、世界各国の多くにおいて現実の政治制度となった。中国、北朝鮮、あるいはサウジアラビアなどのように普通選挙によらない政治権力が現代世界になお残されているが、南北アメリカ、欧州連合(EU)加盟国、あるいは日本や韓国など数多くの諸国において、普通選挙で権力者を選ぶことはすでに政治の日常となっている。

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だが、問題はここから始まる。選挙によって選ばれた政治権力をどのように制限することができるかという課題が残されるからである。

仮に、普通選挙で選ばれたという事実を基礎として政治権力のすべてを権力者に委ねてしまえばどうなるだろう。その権力者は議会、裁判所、あるいはマスメディアによる政治権力に対する規制を弱めるかもしれない。権力への規制すべてを排除する可能性さえ無視できない。民主主義が独裁的な政治権力を生み出してしまうというパラドックスである。

もとより独裁は民主主義の反対概念ではない。独裁の反対とは民主主義ではなく、自由主義、すなわち政治権力を法によって制限するという観念もしくは制度である。中世末期ヨーロッパにおける国王と貴族の闘争という起源を考えれば分かるように、自由主義は国民一般の政治参加とは必然的な結びつきを持たない。法の支配とか三権分立は民主主義ではなく、自由主義の制度的表現である。

もちろん自由主義と民主主義が矛盾するとは限らない。だがここで民主的に選ばれた代表者がその権力を制限する者を排除した場合、民主主義ではあっても自由主義は損なわれた統治が生まれる可能性がある。これが自由主義の失われた民主主義、イリベラル・デモクラシーの問題である。

いま世界を見渡せば、イリベラル・デモクラシーの拡大から目を背けることはできないだろう。アメリカのドナルド・トランプ大統領はロシアによる大統領選挙への干渉の捜査に当たるロバート・マラー特別検察官や、連邦捜査局(FBI)に対する非難を繰り返し、トランプ政権に批判的な報道を行うマスメディアについてはその報道機関の名前を挙げて虚偽報道、フェイクニュースと呼び捨てている。

アメリカだけではない。通算4期目を迎えたロシアのウラジーミル・プーチン政権のもとで、裁判所や議会による権力制限、あるいは政府に反対する報道が厳しく抑え込まれている。これにトルコ、ハンガリー、フィリピン、あるいはインドなどを並べるなら、普通選挙によって生まれた政権が政治権力への規制を阻む政治体制の長いリストを見ることができる。これらの体制は普通選挙に基づいていると言う意味においては専制支配ではないが、行政権力が集中し、法の支配が弱まった点においては専制支配との違いがごく限られたものとなってしまった。

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日本も例外ではない。選挙制度がほんとうに一人一票を実現しているのかについて疑問が残るとしても、総選挙の結果として自民党政権が生まれたことは否定できない。しかし、法の支配の根幹と言うべき憲法の改正、それも個別の条文ばかりでなく日本国憲法の正統性が争われる状況は、自由主義の後退と見なされても仕方ないだろう。

自由主義の原則に従う限り、選挙によって選ばれた権力であってもその権力は法によって縛られなければならない。他方、選挙によって選ばれた指導者が、国民から権力を委託されたことを根拠として自分の持つ権力への制限を排除する可能性は常に存在する。民主主義の名の下で自由主義が失われる危険がここにある。

私は民主主義を衆愚政治として否定することには賛成できない。国民の政治参加は政治権力の正統性の基礎だからだ。同時に、普通選挙だけによって政治権力の正統性を認めることは、政治社会における法による支配を退ける結果に終わるとも考える。それは民主主義の名の下において、力のあるものには逆らうことができないという、まさに専制支配と選ぶところのない統治を広げる結果をもたらすことになるだろう。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2018年8月15日に掲載されたものです。