国境閉ざすヨーロッパ − 地域の統合から分解へ

東京大学政策ビジョン研究センターセンター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2018/9/21

Photo: K.yamashita

国外の学生がほとんどを占める授業で、冷戦は終わったのかと質問された。米中・米ロの緊張する現在から振り返ると、東西冷戦が終わったようには見えないというのである。

私は冷戦終結が何を指しているのか、1980年代から90年代初めの国際政治の展開を中心として説明したが、すっきりしなかった。何が終わり、何が変わったのか、前より見えなくなった恐れを感じたからだ。

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変わったことはたくさんある。ベルリンの壁は倒され、東西に分かれたドイツは統一を達成し、ヨーロッパに関する限りでは自由主義陣営と共産主義陣営の分断が克服された。米ソ両国の核弾頭は大幅に削減され、核兵器廃絶にはほど遠いとはいえ両国の対立が核戦争に発展する懸念は減った。無視できない変化だろう。

変わらなかったことも多い。まず、地域が限られている。冷戦終結とはなによりも旧ソ連とその衛星国における共産主義体制の崩壊であり、ヨーロッパの外にもたらした影響は必ずしも大きなものではない。アジアでは北朝鮮はもちろん中国とベトナムでも共産主義体制が続いている。これが中東地域の場合、冷戦のもとにおいてさえ、地域政治情勢の中で東西対立によって捉えることのできる国際関係は多様な対立の一部に過ぎなかった。大きな変化には違いないが、冷戦終結が国際政治のすべてを変えたわけではない。

そしてもちろん、冷戦終結時と現在の世界は違う。中国の軍事的・経済的台頭とともに西側諸国との緊張が高まり、米中貿易戦争の先は見えない。グルジア(当時)紛争とクリミア併合以後、ロシアと欧米の対立が明確となり、冷戦という形容を用いる人も現れた。とはいえ、国際政治において競合と対立が避けられない以上、欧米と中ロの関係が変わったことについてもそこまでの驚きはない。問題は、時代を超えても逆戻りしない変化が何か、それがはっきりしなくなってきたことである。

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1989年8月19日、ハンガリーのショプロンに、東ドイツ(当時)の国民が集まりはじめた。すでに関係改善の進んだハンガリーとオーストリアとの国境開放を利用して東ドイツから越境しようという企てである。この、汎(はん)ヨーロッパピクニック計画と呼ばれた人の移動は、ショプロンばかりでなくハンガリー各地への東ドイツからの人の移動を招き、ベルリンの壁、さらに東欧における共産主義体制崩壊に至る変動の端緒のひとつとなった。冷戦終結は各国政府による緊張緩和ばかりでなく、越境という形による人民の意思表示によって進められたといってもいいだろう。

冷戦終結後のハンガリーは欧州連合(EU)に加入した。だがいま、オルバン首相のもとで、セルビアとの国境に壁を築くなどの措置を伴う移民規制が進められ、そのような人の移動の規制、さらに司法権の独立の制限などがEUの理念に反するとの理由から、欧州議会はハンガリー制裁手続き開始を決定した。東西を越えた人の移動を実現したハンガリーが、国境を越えた人の移動を規制する先頭に立っている。

ハンガリーだけではない。イギリスのEU離脱は、10月のEUサミットまでにEU諸国との協定が結ばれる可能性が遠のき、協定なしの離脱、ハード・ブレグジットに向かいつつあるが、このEU離脱を決めた国民投票の背景にも難民と移民への反発があった。スウェーデンでは9月の総選挙において右派政党スウェーデン民主党が18%の得票を獲得した。フランス、オーストリア、オランダ、デンマーク、さらにドイツにおいても、移民排斥政党が力を伸ばしている。

さらに注意すべきは、右派政党が政権を掌握する事例が生まれていることだ。イタリアでは、五つ星運動と連合を組んで政権与党となった同盟(旧北部同盟)の党首マッテオ・サルビーニ(副首相・内相)が難民・移民の上陸を拒んでいる。サルビーニ氏の掲げる難民・移民の排斥は、EUの掲げる人の移動の自由と真っ向からぶつかっている。

冷戦終結も国際政治の歴史における時期の一つに過ぎない以上、それが変わることは避けられないのだろう。それでもヨーロッパにおける地域統合は、民主主義と市場経済を共有する諸国によって実現された、後戻りすることのない政治的成果となるはずだった。そのヨーロッパ諸国は今、アメリカにおけるトランプ政権と競い合うように、自国の利益のためには地域協力を後回しにする体制への転換を進めている。分断された世界の克服を先頭に立って進めたヨーロッパは、分解する世界の先頭に立とうとしている。

この文章は朝日新聞夕刊の『時事小言』に 2018年9月19日に掲載されたものです。