安心して暮らせる活力ある長寿社会の実現を目指して
高齢化社会の「課題解決先進国」へ

--- 最新 110125 version6.2 / 初版 090119 ---

2009/2/20

当政策提言の方向性について 2009/7/14

  1. 総論
  2. 各論
    1. 1.医療の仕組みの再構築
      −「地域」「救急」「産科」崩壊の問題を根本的に解決−
      1. (1)問題の正確な認識
      2. (2)解決策の選択肢
    2. 2.医療情報の統合・活用の仕組みの創設
      −質の高い医療をいち早く提供する−
      1. (1)クリニカルデータ利用の現状
      2. (2)統合・解析・活用によって生まれるメリット
      3. (3)国内外の先進的な動き
      4. (4)具体的な課題と解決策の選択肢
    3. 3.再生医療
      −先進医療を国民の元に早く届ける−
      1. (1)我が国の再生医療の現状(多数の研究開発、海外に比べ少ない実用化)
      2. (2)再生医療の実用化を妨げている壁
      3. (3)解決策の選択肢
    4. 4.ジェロントロジー
      −70歳〜80歳代の方々が快適に暮らせるコミュニティのモデルを世界に先駆けて作る−
      1. (1)世界における高齢者コミュニティの現状と課題
      2. (2)日本における社会コ ミュニティ作りの課題
      3. (3)知の基盤としてのジェロントロジーの活用
      4. (4)解決策の展望
      5. (5)長期的な視点を意識したインフラ整備
  3. 終わりに−今後の政策研究の展開に向けて−

総論

目指すべき長寿社会像

「社会の高齢化」は文明の帰結であり、不可避である。また、それへの準備は人材の育成など10年を超える時間を要する。将来に対する備えを後送りすることなく、今すぐ行動する必要がある。

高齢者が可能な限り健康で充実した生活を、安心して送ることが可能となるよう、先進技術を迅速に取り入れつつ、社会のあり方を総合的に変えていく(社会の高齢化に対応したソーシャルイノベーションの実現)。

日本に少し遅れて高齢化社会を迎える世界の国々に対し、課題解決のモデルを示す。

  • 視点1:若者・中年を標準として建設してきた社会を変える
  • ライフサイクルのステージごとに人生像を考え、どのステージでも基本的な生活を快適に送れるようにする
  • 高齢者の割合が20年までに現在よりも10%、35年までに20%高まることを前提して「高齢者を標準とする社会」へ (65歳以上人口:2005年20%、2030年に32%、2055年に41%,中位推計)
<図1>出典:東京大学ジェロントロジー寄付研究部門資料 国立社会保障・人口問題研究所
<図2>出典:東京大学ジェロントロジー寄付研究部門資料
  • 視点2:健康な高齢者が多いことを再認識し、加齢に伴う体力等の低下を補いつつ快適に暮らせる社会を実現する
<図3>高齢者問題=介護・医療問題とは限らない。例えば少なくとも70代後半で71%、80代前半では57%が介護・医療を利用しておらず、健康な高齢者が多いことがわかる。1
東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:平成17年国勢調査、厚生労働省平成17年患者調査、厚生労働省平成17年介護給付費実態調査
  • 視点3 医療、情報通信、ナノテクノロジー、知の構造化技術などの技術進歩のメリットを国民が速やかに受けられ、新産業としても発展するようにする

21世紀型の解決策

知の爆発や変化の加速といったことを踏まえ、解決策の俯瞰的なデザイン、制度イノベーションのスピード、変化への柔軟性という3点で、従来とは異なる制度的枠組みや制度改革のプロセスを採用する。

  • 視点1 分野と分野、視点と視点、全体と部分という3種類の対話と統合により解決策をデザインする
  • 視点2 知の爆発や社会の変化に取り残された古い制度を速やかにイノベートする「規制緩和」から「制度創造」へ発想を切り換える
  • 視点3 将来の変化に柔軟な制度を作る、法制度に可変性を組み込み、透明性・評価の下で一定程度、専門家コミュニティ等により自律的に制御可能な仕組みとする

重視する4テーマ

本ペーパーは、健康な高齢者が多いことを再認識した上で、そうした高齢者も含めて快適な生活を安心して送れる社会の実現を目指している。

健康な高齢者についても、ライフサイクルを通じて最も重要な社会基盤は、医療である。現在、その持続性への不安、緊急医療・産科医療・地域医療の崩壊といった緊急性の高い問題が生じていることから、「医療システム」の持続性回復がすべての議論の前提となる。そこで、各論では、最初に「医療システムの改革」を取り上げる。

その後、ジェロントジーに依拠しながら、住宅、家事、移動、地域活動 など、高齢者の生活にかかわる幅の広いテーマについて、考え方を示す。

  1. 「医療システム」が抱える課題解決のための鍵の第一は、「医療資源の再配分」である。再配分を進めるための仕組みとして、「専門補助者(たとえば、アメリカで導入されている、フィジシャンアシスタント等)制度」の導入、「医療情報(クリニカルデータ)の高度利用」等新たな仕組みの導入も検討した。
    第二は、新技術の高い可能性を活かすことである。この面からは、そのポテンシャルの大きさに鑑み、「知の構造化技術を利用した医療情報(クリニカルデータ)の高度活用」、と並んで、「再生医療」を取り上げる。
  2. 「クリニカルデータの活用」は、高い精度のエビデンスに基づいた診断、予防、治療を可能とすることで、医療の質や効率を高める上で大きな効果を期待できるほか、医療資源の再配分を検討する際にも、貴重な基礎データとして活用できる。
  3. 自己細胞を使った3次元複合再生組織による「再生医療」は、技術的な難易度は高いが、従来型の再生医療と比較して格段に適用範囲が広く、例えば、悪性腫瘍による外科手術後の骨の復元、変形性関節症の治療等を画期的に改善する効果を持つ。こうした新技術がもたらすメリットを早期に国民の手に届ける方策が求められている。
  4. 健康な高齢者を重視した対応、俯瞰的な課題解決策のデザインという点では、国際的に注目されている「ジェロントロジー」という学際的な学術成果の応用を重視する。医療・介護に加え、交通、都市・住宅、情報工学、地域コミュニティ、法的な保護など高齢者の生活実感に応じ、幅広い視点から検討が必要である。また、既存の手段を前提に解決策を考えるのではなく、新技術を活かすことが効果的な解決策を探ることが重要である。

課題解決により生まれる結果

  • 4テーマの課題の解決により、高齢者の生活スタイルが社会の標準の一つとなる新しいコミュニティのモデルが生まれる。また、医療に関する無用な不安を感じることなく、再生医療等の先端技術の恩恵をいち早く感じることが出来る社会の実現につながる。
  • 同時に、課題の解決は、急増する高齢者が快適で安心できる生活の実現や、高齢者のニーズにマッチした新商品やサービスを次々と生み出すことにつながる。また、今後、高齢化が進むアジアの国々からの需要を獲得できる可能性がある。
  • それらの生産は、労働集約的な性格が強いことから、新たな雇用を大量に生み出しうる。つまり、社会的な課題解決と雇用創出を同時に実現する。我々はこれを「シルバー・ニューディール」と呼ぶ。

新たに生まれる商品・サービスの例

  • 高齢者のコミュニティ活動をアシストするサービス
  • 低下する体力・機能を補う商品やサービス
  • 運転や乗降がしやすい超小型自動車
  • 需要応答型交通システム(DRT)
  • 新しいタイプの快適な集合住宅や街
  • 映像工学やウエラブルITの技術等を駆使した高齢者に適したインターフェースを持った機器
  • テレプレゼンスのような新しいアメニティ(家庭に居ながら劇場や博物館にいるような臨場感を持って行う体験)
  • クリニカルデータの高度分析・活用を行うサービス(例えば、診断や投薬のアドバイスの提供、新しく判明した効果の高い治療法情報の提供)
  • 構造化されたクリニカルデータを用いた創薬、医療機器や治療法の開発
  • 医療専門補助者(フィジシャンアシスタント)による専門サービス
  • 再生医療に使う細胞の培養、管理、運搬等のサービス(医療エンジニアリング)

<参考>
健康人口の実数は以下の理由により、これより多くなる可能性がある。(「健康ではない」状態に対する定義が難しいため、データには重複等がみられるが、健康な高齢者が多い可能性が高いことから、本提言の趣旨が損なわれることはない)

  • 入院・外来総数
    • 他診療科の診療数は病名が違えば同一人物のものだとしても、別にカウントされている。
    • 年に一度でも診察を受ければカウントされるので、その後健康である場合もカウントされている。
  • 要介護・要支援
    • 認定の際に主治医意見書が必要なことから、新規認定分は外来数と重複している可能性がある。

各論

1.医療の仕組みの再構築−「地域」「救急」「産科」崩壊の問題を根本的に解決

(1)問題の正確な認識

昨今の医療崩壊は、平成16年度の初期臨床研修必修化に伴う研修医の都市への集中が主原因と言われている。また若手医師が厳しい医療現場を避けるようになり、外科・救急・産科などで医師不足が顕著になったとも言われている。しかしそれは原因ではなく結果を説明しているに過ぎない。

わが国では医療の提供に対して、たとえば医師不足地域へ研修医を多く配置するという発想に代表されるように、質よりもアクセスが重視される傾向がある。医療のコストは、医療の質と、提供する量(アクセス)の積として決めることができる。このため、アクセスを維持しながら質を高めることは、医療コストの上昇を許容できる時代には可能であった。しかしコストの上昇が期待できなくなった近年でも、高い医療技術や高い安全性等の医療の質向上への期待がますます高まっているため、アクセスの維持は極めて困難になりつつある。そのような状況下でも、現場を預かる医療従事者の使命感によってアクセスは維持されてきたが、その陰で低賃金の非正規雇用の若手医師や無給の大学院生などがしわ寄せを受けてきた。またしわ寄せを受ける人員的余裕がない医療現場では、アクセスの維持が困難となり、いわゆる医療崩壊が進行することとなった。

<図4>アメリカでは質を維持するためにアクセスが制限されており、うす緑色の三角形を実現。日本では質を維持しつつ(赤三角形)アクセスを広くしている(うす緑色)が、赤三角形部分の維持が難しくなっている。
東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:東京大学 医学部附属病院 永井良三教授資料

必要な医療への資源の再配分など

研修医は2年間の研修期間中は単独で医療を提供できないため、初期研修の必修化により2年分の医師が医療現場から消えたことになる。

かつては医師国家試験合格者の多くが大学病院の医局に所属し、研修を兼ねて大学病院やその関連病院で医師として働いてきた。その際に、一人前の医師になるためには、偏りのない研修を受ける必要があるため、医局の所在地に関わらず、研修先は都会や地方がミックスされることが多かった。その過程で地方の公的病院への医師配置が大学医局により行われてきた。

しかし医局によらない自由度の高い人材配置を目指して初期研修制度が導入された際に、マスコミなどを通じて医局制度の負の側面が強調されて来たこともあり、大学医局へ所属しない若手医師が増加した。その結果、医局による医師派遣機能が機能不全を起こし、少人数で維持されてきた地域の中核病院は機能しなくなった。

医療の中には、緊急性がなく、患者数に応じて医師数を増減できる領域もあるが、外科手術に代表される、チームとしての医療の提供が必要とされる領域や、産科や救急に代表される、一旦開設すれば患者数に関わらず24時間体制(※注)が必要となる領域もある。しかし外科・産科・救急などの領域は、地域の中核病院では最小限の人数で維持されることが多かったため、わずかに医師数が減少しただけで体制の維持が困難になったのである。

医療体制の整わない病院では満足な研修を提供できないため、研修医も集まらなくなった。しかし必要なことは研修医を集めることではなく、単独で診療可能な医師を、必要とされる医療現場に集めることである。医療体制が不十分な病院で研修を提供することは不可能である。そこで当面は指導体制が整った都市部の病院が研修を担当し、独立して診療ができるようになった医師を地方へ配属するような仕組みが必要である。

※注:40時間労働の医師を24時間配置するためには、1名配置するごとに5名が必要となる(1週間168時間÷週40時間=4.2)。通常24時間体制の勤務は、このような計算で必要人数が決められるが、医師数は日勤の人数で決められるのが通常であるため、極端な不足が常態化している。

(2)解決策の選択肢

負担やリスクに応じたインセンティブ付け・使命感を生かせる制度作り

地域医療を担う病院については、期待される機能ごとに医療提供を可能にする医師数・看護師数などの最小単位を決め、それを確保するための方策を検討しなくてはならない。医局による医師派遣機能が期待できなくなった今となっては、負担やリスク(緊急呼出しや長時間手術など)に応じたインセンティブ付け(例えば報酬や休暇、留学制度など)が必要である。

なお、医療を志す者には強い使命感を持っている者が多いことから、それを活かせるような制度作りが行われれば、インセンティブなどよりも強い動機づけとなる可能性が高い。そうは言っても、使命感だけに頼って維持されてきた医療体制は、一時的には機能することはできても、長期的には維持できない可能性が高い。

例えば、大部分の医療機関では当直医が救急医療を担当しているが、当直勤務は、法的には相当の睡眠時間が設定され、常態としてほとんど労働する必要のない勤務とされており、労働時間としてはカウントされない。このような制度を用いて救急医療体制を維持すれば、通常の勤務時間以外に夜通しの労働が加わることになり、強い使命感を持つ医師ほど体力的にも精神的にも燃え尽きてしまう危険性がある。

病院のグループ化・階層化

我が国の医療機関には、諸外国に比べて人口当たりのベッド数やCTやMRIなどの高額医療機器が多く、ベッド当たりの職員数が少ない。これは医療資源の分散により急性期医療の実現を困難にし、また経営の悪化につながっている。

この問題を解決するためには、医療機関ごとに機能を特化し、複数の病院で総合病院の機能を有するようにグループを構成することが望ましい。その際に公立病院は民間のできない医療のうちで、特に維持が困難となっている領域に力を入れるべきであり、具体的な候補としては外科・救急・産科などを含む急性期医療が挙げられる。逆に急を要さない軽度または慢性期の疾患については、それ以外の病院や診療所が担当すべきである。なお時間的緊急性が要求される救急医療については、できるだけアクセスが均等になるよう配置されるべきであり、緊急性を要さない医療とは分けて考える必要がある。

病院のグループ化・階層化により医療資源を最大限有効に活用するためには、受療行動への影響を十分に考慮した診療報酬の重み付けが必要となる。また医療を受ける側の地域住民が、例えばかかりつけ医と病院を正しく使い分けたり、救急車の利用法を理解することなど、地域の医療体制をしっかりと認識することも、地域医療を守るために必要なことである。

専門補助者の制度導入など

現在の体制を維持しながら上記の対策を実現するためには、より短期間で医療従事者の大幅な増員を行うことが必要になる。養成数を増加した場合に効果が現れるまでの期間は、看護師は3〜4年間で済むが、医師は10年以上を要する。当センター調査によれば、医療への需要は遅くとも平成40年頃にピークを迎える可能性が高く、医師数の増加がこれにマッチしないことがわかった。(詳細解説ページへ

<図5>年齢4区分ごとの受療行動が平成17年から変わらないと仮定した場合の患者数予測。平成31年に外来患者数が、平成40年に入院患者数がピークを迎える。その後外来患者数は急激に、また入院患者数は徐々に減少するが、医師数の増加は大幅に遅れる見通しである。
東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:統計局平成18年将来推計人口、平成17年国勢調査、厚生労働省平成17年患者調査、「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化に関する検討会資料

まず短期間で増員が図れる看護師の不足については、直ちに暫定的に養成数を増加するなどして対処すべきである。また医師不足への対策として医学部の定員が平成21年度から徐々に増員される予定となっているが、医師数の増加は医療需要よりも大幅に遅れることになり、さらなる対策が必要となる。

現行法上、医師の診療の補助と解釈できる範囲内であれば、看護師が医療を提供することが可能である。しかし医学の進歩に伴い、複雑な管理を要する患者が増え、看護業務の専門性が高まったことから、現状の看護師数では医師の補助にまで手が回らなくなってきた。その結果、かつての医師の補助業務を医師自身が行うことになり、業務量の増加がさらに医師不足に拍車をかけている。

本来医師は専門職として高度な知識や技術を要する場面に専念するべきであり、補助業務担当者の不足を医師数増加で補うべきではない。この問題を早急に解決する方法として、一定の要件下での看護師の業務範囲拡大(現行法でも可能)や、アメリカのフィジシャンアシスタント(PA)やナースプラクティショナー(NP)のような医師の補助を行う専門職制度の創設などが挙げられる。ただし看護師については、現状でも不足していることから、いずれの場合に対しても養成数を増加させることが前提として必要である。

前者については、現在の認定看護師制度などを参考に、一定の臨床経験を有する看護師に対して、研修の受講や試験の合格を要件に業務拡大を認めることが考えられる。後者の新制度創設に際しては、既に臨床現場で働いている医師以外の医療従事者を対象に、一定期間の研修の後に何らかの試験を経て資格を付与することが考えられる。新たな資格制度を創設する場合の対象として、歯科医師や、臨床経験豊富な看護師などが想定できる。

いずれによっても医師数増加に近い効果が見込めるため、短期間で医師不足を解消することが可能となる。

2.医療情報の統合・活用の仕組みの創設−質の高い医療をいち早く提供する

(1)クリニカルデータ利用の現状

医師は一人一人の患者に対する治療経験により育成され、診療情報であるクリニカルデータはすべてカルテや臨床検査、画像検査などの結果として蓄積されている。従来のクリニカルデータは、医療従事者の個人的な経験として利用されるのみであったが、電子カルテの普及に伴い、文字情報としての診療記録のみならず検査や画像データも含めてクリニカルデータのデータベース化が可能になる。知の構造化の手法を用い、情報を統合、解析処理することで、診断や治療はもとより、創薬や医療機器の開発、医療人材の教育、医療の効率化、安全性の向上などに結びつけることも可能である。

<図6>東京大学政策ビジョン研究センター作成
参考:東京大学 医学部附属病院 永井良三教授資料

(2)統合・解析・活用によって生まれるメリット

診断の質の向上、無駄な投薬・検査排除、効果的な治療法の迅速な普及、都市と地方の情報格差の是正、創薬・医療機器開発の効率化

 クリニカルデータに含まれている、個々の疾患に関する症状や所見、検査データ、画像データを解析することで、エビデンスに基づいた診断や治療が可能となる。また検査や投薬を含む治療の結果を解析することで、無駄な投薬や検査を削減し、効率的な医療が実現できる。

また高度であるとともに効率的で安全性の高い医療を提供している医療機関が有するクリニカルデータを診療支援に用いることで、地方や小規模の医療機関においても、その経験を共有することが可能になる。かつては新たな知見が得られてから、教科書に掲載されるまでには相当のタイムラグがあったが、クリニカルデータを集積することで、新たな知見がリアルタイムにエビデンスとして利用可能となる。またそれにより、指導者や経験が不足しがちな地方中小病院にも若手医師を誘引することが可能になり、医師の地域偏在の是正に役立つ。

さらに特定の病態に対する、特定の薬剤や医療機器の効果を、事後的に収集することが可能になるため、創薬や医療機器開発における基礎データの収集を効率化することが可能になる。

クリニカルデータ利用のメリット
◎ エビデンスに基づいた適切な治療や診断
◎ 効果の薄い投薬や検査の削減
◎ 診療や治療に関するあらたな知見の迅速な普及
◎ 大都市の基幹病院と地方や小規模の医療機関の間での経験の共有
◎ 地方中小病院に勤務する若手医師の教育の充実
◎ 創薬や医療機器開発を高度化する有用なデータの抽出

(3)国内外の先進的な動き

国内では、東京大学医学系研究科に医療サービスの質向上を目的として医療品質評価学講座が設置されている。同講座では、日本心臓血管外科学会及び日本胸部外科学会との協力で、心臓外科領域の診療情報を全国規模で集積し、その解析の結果として、医療の質向上を目指すための診療報酬制度や医療提供システムなどの提言を行っている。また国立大学病院データベースセンターでは、急性期病院の入院医療費に対して導入されている、疾患ごとの定額払い制度であるDPCのデータを用いて、実施された治療内容であるレセプトデータを全国規模で分析し、経営的な視点から治療内容の標準化や適正化を目指した研究が行われている。 政府においても、「医療サービスの質の向上等のためのレセプト情報等の活用に関する検討会」(厚労省)が昨年2月に報告書をまとめ、診療情報の集積や活用に関する論点整理を行っている。

さらに先進的な動きは海外で開始されている。例えばEUで進行中のHEARTFAIDプロジェクトでは、慢性心不全を対象として多国籍の大学・研究所・企業11機関が参加し、検査や画像などを含むクリニカルデータを蓄積・構造化し、データベースからの新たな発見や、意志決定支援システムとしての利用が行われている。

(4)具体的な課題と解決策の選択肢

医療の知の宝庫ともいえるクリニカルデータは、有効に活用されずに死蔵されているが、それをデータベースとして活用することで、国民が得られる効用は計り知れないものがある。

我が国では、クリニカルデータのデータベースとしての利用に関して最も障壁となっているのは、それがセンシティブな個人情報であるために生じる取り扱いの問題である。しかしデータベースを本項で提案するような用途で用いる場合には、個人を特定できるような情報は必要がない。そこで例えば、データ収集の段階で患者等の氏名等の個人情報を削除するなどの方法を用いれば、データベースから個人情報を特定される危険性はなくなるはずである。

クリニカルデータは、その取扱いに際して個人情報の中でも最高のセキュリティが必要とされており、いかに安全確実な手法を用いる場合であっても、その安全性について誰もが理解できるよう万全の配慮が必要である。まずはクリニカルデータ利用による効用を広く社会へアピールし、データ利用に関する社会的なコンセンサス形成及び、クリニカルデータ取り扱いに関する適切な規制の策定が必要となる。

3.「再生医療」という先進医療を国民の元に早く届ける

(1)我が国の再生医療の現状(多数の研究開発、海外に比べ少ない実用化)

疾病や外傷、または先天奇形による組織欠損に対し、自己又は他者からの組織を培養して不足部分を補填する再生医療が国際的に脚光を浴びている。  わが国の再生医療研究は国際的にも先行グループに属しており、自己細胞による再生医療である体性幹細胞研究においては、海外よりも幅広い臨床応用例が報告されている。

現時点で最も実用性が高いのは自己細胞による再生医療であり、諸外国において既に多数の商品化が行われている。しかし我が国では適応範囲の狭いわずかな商品しか実用化されていない。産業界のみならず医療界、治療を受ける国民にとって大きな恩恵となる技術であることを考慮し、再生医療の産業化を促進するべきである。

<図7>東京大学政策ビジョン研究センター作成
参考:“自己細胞再生治療法”法制化の考え方,ティッシュエンジニアリング 2007 自己細胞再生治療法ワーキンググループ

(2)>再生医療の実用化を妨げている壁

 本来、基礎研究、前臨床試験、自主臨床研究、大規模臨床試験、産業化まで、医療制度だけでなく、特許戦略も含めたトータルでシステマティックな改革が必要と考えられる。ここでは、具体的な課題を一つ取り上げる。

自己細胞における再生医療を実用的なものにするために、組織の採取や移植は医療機関が主体となり、細胞の管理・培養・運搬は企業が主体となることが望ましい。しかし企業が主体となる場合の薬事法による規制は再生医療に適していないため、通常は医師法に基づく臨床研究として医療機関で進められている。その際に、薬事法第55条(販売、授受等の禁止)の制約により、医師が細胞採取から再生組織の作製、患者への移植に至るまでの全過程を同一病院内で行うこととされている。したがって、その成果に基づいて企業が治験を行う際には、組織・細胞搬送技術や取り違え防止などの品質管理技術を含めた安全性のエビデンスに関しては、改めて企業が莫大な投資をして収集しなければならない。そのために企業は参入を躊躇せざるを得ない状況となっている。

<図8> 東京大学政策ビジョン研究センター作成

(3)解決策の選択肢

テーラーメイド、技術を正面から見据えた評価の仕組み

自己細胞による再生医療では、移植組織が体外での培養過程を経ているとしても、生体としては自己組織であり、再生医療とはそれを扱う技術であるため、従来の薬事法の対象とは大きく異なっている。そのために薬事法での安全性や有効性の評価方法や審査プロセスを適用する具体的な基準が不明確となり、それが承認の取得を困難にしている。

また薬事法は、不特定多数に対する画一的な製造販売が対象であるため、自己細胞のテーラーメイド加工技術である再生医療に対しては、治療の実態とかけ離れた確認事項までも評価基準にしており、それも承認を妨げる原因になっている。

評価基準の例
(医薬品毒性試験ガイドライン 平成元年9月11日薬審1第124号)
発がん性試験 ラットに再生組織を移植して評価を行う。しかしヒト由来テーラーメイド再生組織製品がラットに移植されると、激しい拒絶反応が予想される。
炎症性の評価 ラットの皮膚に塗布して評価を行う。しかし3次元複合再生組織は有形の組織であるため、どのようにして塗布するのかが明確ではない。

施設の間、産学の間の移動・連携に関するルール作り

再生医療は医師法に基づく臨床研究として開始されているが、これは治療行為としては自由診療となるため、ルールがほとんど存在していなかった。すなわち薬事法におけるルールが厳格であったために、かえってルール不在の状態が招かれたことになる。

この問題を解決するためには、医師法に基づく臨床研究に対して一定の基準を設け、それを満たせば多施設共同研究を許可するように、薬事法第55条に除外規定を設けることが必要である。この際に満たすべき基準については、技術の濫用を防ぎ、安全性が担保できるよう、十分な検討をされたものでなくてはならない。東京大学として学術的知見から基準づくりに対し貢献をしていく。

<図9>再生医療の発展による3次元複合組織の実用化がもたらす新しい医療により、合計2500万人以上が罹患する疾患群をターゲットとすることができる。
東京大学政策ビジョン研究センター作成 参考:東京大学 医学部附属病院 高戸毅教授、星和人特任准教授資料 平成17年度厚生労働省患者調査

4.ジェロントロジー
70歳−80歳代の方々が快適に暮らせるコミュニティのモデルを世界に先駆けて作る

(1)世界における高齢者コミュニティの現状と課題

欧米、オーストラリアでは、「リタイヤメント・ビレッジ(Retirement village)」と呼ばれる高齢者の集住コミュニティが多く作られるようになっている。これは、比較的裕福な高齢者が集まって住むモデルである。ただし、現状では、単一の確立したモデルには至っていない。

我が国やアジアには、高齢者のみが集住するコミュニティのモデルは、適合しないと考えられる。

また、Age-Friendlyな街づくりのためのガイドがWHOやカナダ政府により作成されているが、これらに記載されている内容は、日本では既に実現していることも多く、そのまま我が国に適用できるものではない。また、先端技術の活用といった視点に乏しい。

様々な年齢階層の住民が交わって住む日本型のコミュニティのモデルを独自に創り出していく必要がある。それが出来れば、アジアの諸国にとっても活用可能なモデルとなる可能性がある。

(2)日本における社会コミュニティ作りの課題
―若者・中年を標準に考えてきた社会の仕組みの総合的な変更

現在の日本のコミュニティは、バリアフリー化は進展したものの、依然として、若者と中年層を標準とした構造となっている。

健康な場合でも加齢とともに体力や機能の低下が避けられない。『高齢者を標準としたコミュニティ』に構造を変えていく必要がある。大都市圏周辺の高齢化率の上昇速度が速いとの予測を踏まえると、特に、大都市圏周辺での対応が急務である。

また、今後、我が国では、未婚で子供の無い高齢者の大幅な増加が見込まれている(45〜49歳の男性の未婚率:1980年2.1%→2005年14.0%)。こうした方々にも必要なサポートを提供する仕組みが必要である。

(3)知の基盤としてのジェロントロジーの活用

高齢者にかかわる学際的な学問として、「ジェロントロジー」が世界的に注目されている。ISI社のデータベースでこの分類に登録されている論文誌に掲載されている論文を抽出すると69,403本存在する。内容としては、体の機能障害、認知機能、高齢化メカニズムといった体の機能に関するテーマ、看護・介護等の公的なサポート、社会参加や民のネットワークによるサポートといったテーマが中心となっている。

社会をイノベーションするには、視野を広げ、政府主導の発想から抜け出る必要がある。また、資源や時間が限られる中で、エビデンスに基づく政策立案が欠かせない。従って我々は、住宅・都市、交通、法的な保護等を含めてジェロントロジーをさらに幅広く捉え、政策選択肢の立案の知的基盤として活用すべきである。

(4)解決策の展望

第一に、医療、交通、住宅、身体・認知機能補助、公的・民間コミュニティ機能、法的保護など政策の統合的なデザインが必要である。そのためには、行政機関に存在する機能や資源配分の縦割り構造では対応できない。機能の再グループ化や資源配分のメカニズムの変更が必要となって来る。

第二に、快適な社会を作るには、様々な障害が存在する。これを乗り越えるために、医療(例えば、遠隔診断が可能なウエラブル救急医療システム、在宅検査のためのナノカプセル)、交通(例えば、運転や乗降がしやすい低速超小型車、オンデマンドバス)、映像工学やモバイル技術を利用した機器(例えば、臭覚・触覚ディスプレー、見たり聞いたりしたことをコンピューターがそのまま記録するライフログ)、ロボット工学(人間のパートナーとなり家事・介護を助けるロボット)などの先端科学を積極的に導入する必要がある。

東京大学では、柏キャンパス周辺等において、先端技術を活用した街づくりの提案を行うための実験を行っており、その成果を活用しつつ、新コミュニティのモデルを提案してゆく。

(5)長期的な視点を意識したインフラ整備

老齢者人口は、長期的にはピークアウトする時代が到来することが見込まれる。長期間利用する施設や人材に関しては、それに備えて柔軟性を確保しておくことが必要である。

<図10>東京大学政策ビジョン研究センター作成

終わりに−今後の政策研究の展開に向けて

政策ビジョン研究センターでは、センターがハブとなって医学、工学、法学、経済学、公共政策学、情報工学などの分野の知を統合して研究ユニットを編成し、研究を進めている。

本ペーパーのテーマに関しては、「医療とIT」、「再生医療」の研究ユニットを既に設置している。また、学内の「ジェロントロジー寄付研究部門」との合同による検討も開始している。

さらに、高齢化・医療分野以外にも関連する横串のテーマとして、「技術ガバナンス」、「イノベーション・システム」についても、研究ユニットの設置等を行い検討を進めている。

本ペーパーは、我々の今後の研究テーマの課題と方向性を示したものである。今後、各ユニット等における研究成果を取り入れて、具体化や修正を行い、社会に対して提言していく予定である。

<図11>東京大学政策ビジョン研究センター作成