- 議題:「行政をめぐる近時の状況と今後のあり方について ~ 厳密なリスク管理型の行政からレジリエンス型の行政へ」
- 日時:2014年9月16日 18:00 – 20:00
- 会場:東京大学本郷キャンパス 伊藤国際学術研究センター3F特別会議室
- 講師:中井亨氏(内閣官房行政改革推進本部事務局参事官)
行政をめぐる近時の状況と今後のあり方について ~厳密なリスク管理型の行政からレジリエンス型の行政へ
講師による主要な問題提起
- 近年の行政改革の文脈について
- 2013年10月から2014年6月まで11回にわたり開催された、稲田行革担当大臣(当時)の下の「国・行政のあり方に関する懇談会」について紹介しながら、最近の内閣官房行政改革推進本部(行革本部)における施策・動向に関連した問題提起を行いたい。古くは臨調行革審などの歴史があるが、近年の行政改革の中心的課題は、端的にいえば行政のスリム化である。その中で、特別会計改革や独立行政法人改革と並んで、行革本部事務局の主な仕事となっているのは、歳出の無駄をできるだけ削ることである。現自民党政権で行政改革の進め方について政府内や与党内で協議し、前政権のいいものは引き継ごうということで、「行政事業レビュー」を継続することとなった。そこでは、現在ある約5千全ての行政事業について各省庁が自己点検し、PDCAサイクルをきちんと回せるよう自己改善の運動として位置づけている。特会改革や独法改革については大体道筋がついたが、無駄の撲滅については、ここまで来たら終わりというものはなく、不断の努力として、システムとして定着させていかなければならない。
- 行政のスリム化という意味では、公務員制度改革の流れもある。民間と比べた場合の公務員に特殊な人事制度、すなわち、終身雇用制と、天下りの禁止や能力実績主義の導入が主な論点になるが、政治との関係を含め、今の公務員制度の見直しの議論である。今年(2014年)5月には内閣人事局による幹部人事の一元管理も導入され、公務員制度はだいぶ変わりつつある。しかし、行政機構・定員の査定・合理化はこれまでも行われており、かつて郵政や国立大学等含め100万人いた国家公務員が、現在では30万人を切っている(自衛官を除く)。当然のことながら、行政のスリム化といっても、どんどん減らしていけばいいのかというと、どこかで物理的な限界は来る。俗にいう「切る行革」というのはだいぶ限界に来ているといえる。
- さらに直近では、内閣官房や内閣府の業務見直しがある。2000年の省庁再編で各省庁を統廃合して大括り化し、横串の仕事として、内閣官房は戦略の場、内閣府は知恵の場という位置づけにし、特に新しく出てきた仕事に対応できるようにした。省庁を大括りにすることで、一人の大臣がある程度広い視野で物事を見えるようにし、なおかつ、一つの省でおさまらないことでも省庁間で調整システムを働かせ、それでも足らない部分は内閣官房や内閣府という一段高い所の調整を働かせるというものである。その後、内閣官房や内閣府には新しい組織が次々とできたが、これらを抱えすぎて手一杯になると、そうした一段高い調整もできなくなるため、もう少しこれらを身軽にし、総理や官房長官のリーダーシップを発揮して戦略を立てやすくするべきではないかという発想が出てきた。こうして、現在の内閣官房や内閣府の仕事を、各省庁で一番関係の深い所に戻していくという模索をしている。
- 「国・行政のあり方に関する懇談会」について
- こうした行革をめぐる状況を踏まえ、稲田大臣としても、規制改革や公益法人改革、独立行政法人改革など様々な改革について、広い意味での行政改革であるとしても各部局で各々バラバラに取り組むのではなく、行政全体を通ずる哲学のようなものをきちんと打ち立て、これに基づいてやる必要があるのではないか、という問題意識があった。こうした流れが一つになり、2013年の春頃にこうした懇談会の提案が上がった。
- 懇談会はまず、社会像もしくは国家像のようなものを広く考え、その中で行政のあり方を考えてみるという観点に立ち、旧来の審議会のように事務局がある程度結論を持って、そこにお墨付きをもらうのではなく、まさに自由に議論してもらった。30年後、40年後の国家像を自分たちのこととして議論してもらうため、比較的若いメンバーを中心に、自分たちで実際に物事をやっている社会企業家のような人たち、そして女性に半数以上入ってもらった。我々としても答えがあった訳ではないので、やってみて何が見つかるか分からない、見つからないかもしれない、というある意味で「実験」としてスタートすることができたのは、大臣の柔軟性もあってのことだった。
- 通常の審議会は、その議論が面白いものであったとしても、世の中にそれが伝わりづらい。この懇談会では運営そのものが行政の新しいモデルになるような情報発信の仕方を試み、グラフィックレコーディングやインフォグラフィックス等の視覚的なデザインの力を借りた議論の「見せ方」、ライブ中継やツイッター発信などによる双方向性等の工夫を行った。
- 「懇談会」の問いかけ
- 懇談会の結論自体も、普通の審議会のように事務局がとりまとめるのではなく、メンバー自身が議論を経て伝えたいことをそれぞれ取りまとめるという方法をとった。また、全11回の議論に通底するようなメッセージや鍵となる考え方を一種雑誌の記事のような形で編集してスライドにまとめ、全体のパッケージをもって取りまとめとした。大きな結論を出すというよりも、この中から読み取ってもらいたいというメッセージであり、全てにおいて、いわゆる役人の常識からは余り考えられないような形になった。とはいえ、バラバラのことを言っているだけではない。全てに通底している考え方は、昨今の財政状況を考えても、これまで国や行政が「あれもこれも」やっていたのを、「あれかこれか」と優先順位を決めてやらなければいけない、ただ問題は、それを誰がどう決めるのかという、まさに民主主義の問題でもある、ということである。民間ができることは民間が行うべきだが、行政にしかできない領域、すなわちイノベーションを生み出すための環境作りや、その全国的な横展開というものがある。しかし、限られた資源のなかでやるべきことはそれだけではない。特定の人たちに資源を集中して、一方には資源を与えないというような優先順位づけを、事前に社会的合意としてとることが本当にできるのか。全ての答えが出た訳ではないが、こうした問題提起をし、むしろ今後皆で考えませんか、という投げかけとした。
- 更にいえば、これまで行政には余り当てはまらなかった、トライアル・アンド・エラーを認めていこう、行政の一部に「永遠のβ版」的発想を導入しようというメッセージにも連なる。これは役人自身の反省でもあるが、行政は間違えてはいけないというドグマ、100点を目指すという考えに捉えられてきたかもしれない。0点から70、80点まで持っていくコストと、80点から100点にするためのコストを比べると、往々にして後者のほうが膨大になる。行政は後者にコストを掛けすぎているのではないだろうか。
- リスクについても行政は、白か黒かはっきり分け、黒は全部駄目という判断で規制しがちである。行政が「ここから先は全部黒なので駄目」と言いすぎると、人々が自ら判断する機会を奪ってしまうのではないか。例えば、高い防潮堤を造って後は安心させるのではなく、リスクがあることを踏まえて個人がどのように判断するかを支援すべきではないのだろうか。
- そもそも、行政改革のために、なぜこうした国・行政のあり方を考えなければいけないのか。しかもそれを社会像や国家像に広げて話をしないといけないのか。今の民主主義の中にあって行政のオーナーシップ、すなわち「行政は誰のものなのか」という議論に立ち返るだろう。突き詰めれば、行政が提供するサービスの水準も主権者である国民の意思として決められているので、当然、裏打ちする財源も国民からの税金で成り経つ。ところが往々にしてこの負担と受益の関係が多くの人々にとって余り結びついていないのではないか。そのため、誰が決めて誰がそれをオーソライズするのかという根本の部分は懇談会の中でも議論した。一つの結論としては、公助/共助/自助の3つの軸の中で、「自立した参加型の社会」を作るべきということである。ではどうしたら今後、それが果たせるのかというところまでは、この懇談会では答えは出ていない。一足飛びにこういう社会が実現するなど到底思わないが、行政においてはまず、今やっていることからだいぶ撤退していかないといけないということについての国民のコンセンサスが必要なのではないか。まずはこうした問題を投げかけていきたい。
質疑応答における主要な論点
- 国家公務員自身の認識も、個人差があり一概に広い意味での「オーナーシップ」の感覚が共有されているとは限らないが、若い世代や女性の増加にも影響され、かなり変わってきているだろう。行政がこれだけ叩かれ、一方で税金を上げるとなると、やはり提供するサービスと見合っているのかどうかは議論になる。評価はもう少し正当に行われていいのではないかという感覚はある。一方、国家公務員より地方公務員のほうが実際に住民に接する機会が多いので、よりこうしたことを考えざるを得ないだろう。例えばITを活用したオープンガバメントの文脈では、千葉市が始めた「ちばレポ(ちば市民協働レポート)」という取組みがある。行政の限られた資源の中で優先順位を付けざるを得ないということが、ある程度、市民に見える形で出てくるし、さらに進めると、その中で自発的な関与も生まれる。
- 行政としてやるべきことを、まさに誰が決めるのかということは、優先順位づけやプロセスも含めて、宿題として残されている。例えば原子力安全については70点、80点というわけにはいかないので、やはり行政としてどうしても守らないといけない部分は間違いなくあるが、全部が全部そうではない。重要なのは、行政も変わっていくということで、資源を集中させてやるべきことが、ずっと不変という訳ではない。新しい役割が入ってこれば、当然、必要なものは取り込んで、古いものは捨てていけばいいという発想である。「誰が」に関しては、当然、政治家や政党の役割も考えられるが、(これも世代や個人差によるが)少なくとも昔に比べれば、底流での理解はかなり上がってきていると思われる。一方、政治家の後ろには有権者がいるという関係もあるので、結局、そこが変わらないと政治だけが変わる訳がないという面もある。
- 「あれもこれも」から「あれかこれか」へ変わらなければいけない、というのは、ある意味総論賛成的な結論。懇談会での議論があえて細部の具体論に入らずに抽象的にとどまった理由の一つとして、具体的に行政の実務に落とすと、やはり既存の色々なものとぶつかり尖った議論ができなくなるということはあった。自由に議論するためには、まずは他の行政との調整を度外視して進める必要があった。しかし、総論と各論の間に落としどころはあるはずで、例えば政策評価も、日本では余り機能してここなかったが、5年や10年毎の見直し規定など、総論賛成のまま進めながら、かつ、頻繁に見直しをするインセンティブを持たせるような仕組みがあるのではないだろうか。予算査定、規制影響力評価、リスクトレードオフといったいくつかの接近法があるだろう。
- 例えば危機管理であっても、(国家)公務員の専門性が求められるが、何をするかを見極めて質を高めるしかない。人事異動の抑制については一般論としてもよく言われるが、特定の分野では、専門性を高めるインセンティブスキームも重要であろう。現在、専門スタッフ職という種類のポストを設ける動きはあるが、まだ仕組みが出来たばかりで、人事として専門性を育てることを第一の価値においてやっている訳ではない。また、そもそも、各部門のミッションにおいて、各ジョブ・ディスクリプションがきちんと書かれていれば、それに応じて必要なスキルや専門知識が明確になるが、日本では組織自身が余りそのようなことをしないのだろう。この点はジェネラリストにおいても重要であり、例えば、国家の危機管理であれば、専門性は外部から登用することもあり得る。ここで、本当に必要な能力は一体何かという議論が足りていないのではないか。
- 一方、組織自身のミッションなり目標なりがどこまで明確にあるかという大前提があり、それがある程度あったとして、個人にまで本当にきれいに分解できるかというと、疑問でもある。また、特定の人に全部任せられてそこでクローズドだということではない。専門性や責任はきちんとと決められるが、チームワークとしてそれらのオーバーラップは大切であり、そこから先はマネジメントの問題となる。専門性を持った人が互いに尊重し合い、互いに意見を聞きながら自分の専門性を高めていくことができれば、日本のチームワークのいいところも出てくると期待できる。こうした公務員制度改革そのものも、うまくいくかは分からないし、誰も答えを持ち合わせていないので、まさにトライアル・アンド・エラーなのではないだろうか。
- 内閣府や内閣官房に新しい仕事が増え続けた原因の一つには、やはりそうした看板・権威づけがあれば、調整もやりやすくなるというインセンティブはあった。一方で、各省庁で危機管理室のようなものを作り、それを横展開・水平展開させていくことはできるのかもしれない。それをやるのは各省であるが、前例があると強いので、他の省庁で良い事例があるという紹介は効果がある。技術的な専門(公認会計士や法律家)に限らず、例えば、広報や人事といった分野も広義にエクスパティーズと捉えて、省庁間で横に動きながら昇進していくキャリアパスがあってもよいだろう。
以上