政策ビジョン研究センター1周年記念フォーラム
09/11/04更新 version1.0
政策ビジョン研究センターの1周年記念フォーラムを、10月28日、工学部2号館大講堂にて開催いたしました。当日は約250人の参加者を迎え、盛況の内に終了することができました。
当日配布資料
オープニング
森田朗 政策ビジョン研究センター長
基調講演 「大学からの政策発信」
濱田純一 東京大学総長
総長の濱田です。本日は多くの皆さまにお越しいただき有難うございます。さきほど森田センター長からご挨拶を申し上げましたように、政策ビジョン研究センターはこのたび1周年を迎えました。すでにさまざまな研究ユニットが活発に動き始めておりますが、これもひとえに皆さま方からの日頃のご支援の賜物と、この機会に御礼を申し上げたいと思います。
このセンターには私も特別の思い入れがあります。というのは、このセンターの設置は、小宮山前総長のアクション・プランの一つとして掲げられていたわけですが、私はその取りまとめの担当理事をしておりました。各理事から所管の分野でプランを出してもらったのですが、この政策ビジョン研究センターの構想は、私が提案させていただいたものです。当時は半ば思いつきに近く、概念も名称もしっかり煮詰まっていなかったのですが、今日こうしてご紹介できるような形になったことには、森田センター長、坂田教授、秋山教授をはじめ関係者の多大なご努力があったことと思います。
その構想を提案した頃から議論していたことは、何よりも、大学がなぜ「政策」を提示するのか、ということです。一つの理念としては、学術は「政策」というような生々しいものとかかわらない方がよい、という考え方があります。へたにかかわると、学術の本質、「真理」を探究するという使命が歪められるおそれがある、というわけです。たしかに、時代状況によっては、一般社会との壁を高くすることによって、学術と真理を守ることが必要な場面はあります。それは、いわば、学術の純粋性を守る、消極的、防御的な方法とでも言うべきものです。
しかし、民主主義社会における大学の学術は、それだけではなく、いわば積極的・能動的な純粋性、もう少し強い言い方をすれば、「攻撃的な純粋性」を求めていくべきものと、私は考えています。つまり、学術の本領というべき純粋な力、突き詰めて考え抜く力を、社会から隔離された状態で育むのではなく、むしろ積極的に社会とかかわることによって鍛え上げ、成長させていくべきだと思います。「政策」というのは、社会とのそうしたかかわりを生み出すために、もっとも有効なテーマの一つです。
大学が社会に知を送り出す公共的な機能を営む時に、「基盤となる知識」をランダムに提示して、あとは社会の消化能力に任せる、というやり方は、一般的にとられてきた知の発信の方法です。それは、知識にかかわる、社会と大学との意味ある分業です。知識のすべてを大学が保有し、どういった知識でもすぐに利用できる形で社会に提供するというのは非現実的ですし、そのような知識の提供の仕方は、社会が自ら考え知識を生み出す力を劣化させます。そもそも、知識というものは、すべて大学で生み出されるものでもありません。
大学の役割は、知識の基盤となる部分、それは伝統的なものもあれば先端的なものもありますが、その基盤となる部分を、蓄積された研究手法のノウハウを用い、歴史という時間軸、また世界という空間軸への視野の広がりを生かしながら、創造し、また鍛え上げていくということです。そこでの社会との距離のとり方はさまざまであり得ます。一方では、社会一般から一定の距離を置いた自立した学問の場であることを生かして知の創造力を極限にまで高めることも必要です。他方で、大学の知と社会の知とが連環する構造を多様な回路を通じて展開することで、知識の質をより具体的で逞しいものとしていくことも求められます。
「大学が政策を発信していく」、という政策ビジョン研究センターのスキームは、大学と社会との関係についてのこのような認識をバックボーンとしたものです。政策の発信は、大学の公共的な機能の表現であるとともに、大学の学術の強化にもつながるものです。
このようなスキームをうまく動かしていくためには、いくつかのポイントがあります。基本となるキーワードは、政策ビジョン研究センターの活動の中で繰り返し触れられている、「選択肢」と「エビデンス」という言葉です。この二つが損なわれる時に、大学が行う政策研究の役割は終わります。エビデンスや選択肢を欠いた政策研究は、学術の名に値しません。そしてまた同時に、この二つのキーワードの存在を確保するための社会の環境として、合理性と公開性が必要であるということも、強調しておきたいと思います。政策判断の合理性に注意と敬意が払われない社会、エビデンスを調達するための情報が十分に公開されていない社会では、政策研究は成り立たない、あるいは歪められる、と申し上げて差し支えないと思います。逆に、こうした社会的な条件さえ整っていれば、大学は、その学術的な自立性と柔軟性を生かして、大胆に、また素早く、「確かなエビデンスに裏付けられた政策の選択肢」を発信していくことが可能です。
こうした選択肢の立案、そしてエビデンスによる裏打ちというのは、きわめて具体的な作業、そして通常は、学問分野の境界を超えた作業となります。具体性と学際性は、政策研究の基本的な特徴です。東京大学は総合大学として、学際性を発揮していくために、まことに恵まれた環境をもっています。
私は本来は法律学の分野の人間で、政策論を正面から扱うほどの見識はないのですが、「情報政策」というものについて若干の勉強をしたことがあります。私がとくに専門としていた情報関係の法律は、ちょうど私が研究を始めた70年代から80年代以降、非常に変化が激しく、すでに存在している法律を前提として、その解釈を論じているだけでは、現実の動きとすぐに乖離してしまう危険がありました。そこで、新たな立法のあり方なども含めて、情報をめぐる「政策」の方にも目を向けざるをえなかった、という事情がありました。
そのように必要に迫られて、半ば素人的な政策研究を行った時に、私自身の研究の基本的な枠組みというか、頭の整理のためにまとめておいたのが、お配りしている資料の論文1です。もう15年くらいも前のものでお見せするのも恥ずかしいのですが、そこで、「情報政策論の構造」ということで、政策研究の切り口として、6つの柱があると記しました。政策原理、政策目的、政策環境、政策手法、政策過程、政策評価、といったものです。その詳細については資料をお時間のある時にでもご覧いただくこととして、今日この後で行われる「研究成果紹介」の中では、そうした政策研究の切り口をさまざまな形で見せてもらえることと思います。
ただ、実は、政策研究というのは、いま触れさせていただいた6つの柱、ないし切り口のような概念的・抽象的な話をしていても、あまり面白くないのです。「神は細部に宿る」というのが、政策研究をかじった私の直感です。個別具体のケースの扱いこそ、政策研究の本領であり、醍醐味ですから、これからの各研究ユニットからの具体的な成果紹介を、ぜひ楽しみにお聞きいただければと思います。
もっとも、このような個別具体の政策研究を数多く丁寧に積み重ねていく中で、見えてくるものがあります。あるいは、「見えるべきはずのもの」がある、という言い方をしてもよいかもしれません。その一つは、もっぱら学問的なもので、政策研究のための基本的な枠組みです。それについては、さきほど私は素朴に6つの柱をあげただけですが、こういった柱が具体的なケースの中で鍛えられ、再度抽象化されて、一般性を備えた政策研究の枠組みとなっていくだろうと思います。
それとともに私が期待したいのは、個別具体の政策研究を積み重ねる中で、いわばそれらの総合として、個別の課題テーマを越えた「時代の政策」とでも呼ぶべきもの、つまりこれからの時代の姿を形造っていく政策カタログが見えてくるのではないかということです。私は、大学の役割を論じる際に、これからの社会がどうなるのかと、多くの人々が不安を抱いている現代のような危機の時代にこそ、知識の創造的な役割、大学の果たすべき役割が大きくなると、しばしば言ってきました。そのために、東京大学が頑張らなければいけないのだ、と言っています。政策ビジョン研究センターの研究成果の発信は、そうした時代の課題に、とりわけ、医療や高齢化、地球環境など、早急な対応が社会から求められている課題に、しっかり応えてくれるはずです。
言うまでもなく、こうした役割は、東京大学だけで果たせるものではありません。社会の知とのインタラクションが必要です。さきほど、「大学の知と社会の知とが連環する構造」ということを申し上げましたが、本日のこれからの議論を通じて、そうした知の連環の仕組みやセンターの取組みの方向性などについて、さまざまなご示唆をぜひいただければと思っております。
改めまして本日お越しいただきました皆さま方に御礼を申し上げて、私のご挨拶を兼ねた基調講演とさせていただきます。ありがとうございました。
1: 「社会情報と情報環境」 東京大学社会情報研究所 編集・発行 1994年3月31日発行<非売品>